かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

自分の倫理を大切にする

 

技術者倫理

多くの人は、なんて事のない日々がずっと続くと思っている。でも実際はちょっとずつ変化が積み重なって、ある時大きな出来事が起きる。毎日が全く変わらないことはきっとないんだろう。期待していても、していなくても大きな変化は起こりうる。

自分の今、一番の課題は「ユーザのために」ということ。反対は自分のために。はっきりとわからされた。ユーザのために、自分は何かをしたいのだ。いつか自分が間違ったことをしている、それを強く思い知らされるだろうとは思っていた。でもいろいろなごまかしをしていた。

それは仕事でも、趣味の面でも。誰かのために仕事をする。誰かが喜んでくれるならいいじゃないか。例えそれが本当にユーザのためにならなくても…。仕事をして喜んでくれる人がいるなら、とても素敵なことだと。それは嘘だった。

 

最近のニュースで知ったけれど、技術者倫理という言葉があるらしい。

 世間で騒がれている7payも同じ構造だったのだろう。技術者倫理で検索すると事例なんかも紹介される。例えば有名なのはチャレンジャー号の事件。こちらはファインマン先生の本で読んだことがあった。

pe.techno-con.co.jp

「君は技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶりたまえ」、先刻の打ち上げ中止の勧告は逆転された。ボイジョリーは、この技術者の勧告の逆転に激しく動転した。人間として、疑いもなく、宇宙飛行士たちの安全を気遣った。死と破壊を引き起こすようなことの一員でありたくなかった。しかしながら、これには、それ以上のことが関わっていた。ロジャー・ボイジョリーは、気遣う市民というだけではすまない。彼は技術者であった。Oリングが信頼するに足りないことは、専門職としての技術業の判断であった。彼は、公衆の健康と安全を守る専門職の責務があり、そこで明らかに、その責務は宇宙飛行士たちにも及ぶと信じていた。今や、その専門職の判断は踏みにじられつつあった。ジェラルド・メーソンのロバート・ルンドに対する指図に反するが、ロジャー・ボイジョリーは、自分の技術者としての帽子を脱ぐのが適当だとは思わなかった。技術者としての帽子は誇りの源であり、そして、それは一定の義務を伴っていた。彼は思うに、ひとりの技術者として自分の最良の技術的判断をし、宇宙飛行士を含む公衆の安全を守る責務がある。それゆえに、MT社の経営陣に、低温での問題点を指摘して、打ち上げ中止勧告を逆転する決定に、最後の異議申し立てを試みた。最初の打ち上げ中止勧告に戻るよう、気も狂わんばかりに経営陣の説明に努めたが、無視された。MT社の経営者は最初の打ち上げ中止勧告の決定を覆したのであった。翌日、チャレンジャー号は発射後73秒で爆発し、6人の宇宙飛行士と高校教師クリスタ・マコーリフの命を奪った。痛ましい人命の損失に加えて、この惨事は巨額のドルの装置を破壊し、そして、また、NASAの評判を劇的に落とした。ボイジョリーは惨事を防ぐことに失敗したが、自分の専門職の責任は、自分が理解していたように実行した。』  

 切ない、痛ましい文章だ。長いけれど読む価値がある。自分には少なくとも、本当に胸が痛く、苦しくなる。激しく動転した、踏みにじられつつあった、技術者としての帽子は誇りの源、気も狂わんばかりに…。激しい文章だ。

 

小さな倫理違反の積み重ね

会社内でものづくりをすると、消費者と会社の利益の板挟みになりやすい。確かに命に関わるようなほどの大きな決定というのは、普通少ない。だからこれらの事象は言わば大きな火災の際にどのように行動すべきかを書いている”防災マニュアル”のように受け取られがちだ。

でも実際は細かいところで小さな警告無視が発生していると思う。例えばマニュアルをずさんに書く、予告もなくこちらの都合を優先してユーザに不利益を発生させてしまう、バレないからいい。全部に全力を注ぐのはコストが膨らんでしまう、人間だから全部完璧にはできない。でもだんだんと、企業側の都合ばかりになってユーザを見なくなってしまう。どこまでが許されるのか?

数年前に見た、プロフェッショナル仕事の流儀の「挑まなければ得られない」を思い出す。あれこそ技術者倫理だなと思えるものがあった。新しい機能を作る時、プログラムの都合上ユーザに一手間かけてもらうしかない、そういう結論になりそうになった。

その時マネージャは絶対にNoとした。それは自分たちの都合であって、ユーザには関係ないと。ユーザのことを常に考えよ、と。今でも何度か見返したり、ふと意味を考えたりするのだけど毎回発見がある。倫理という視点で見るとちょっと変わる。

 

自分の中にある倫理と反することがあるたび、どんどん擦り切れていく。企業として、ユーザを軽視するような決定に個人が抗い続けるのは難しい。ユーザを個人の技術者が守ろうとするのではなく、当たり前のように守れる会社にいた方がいい。限界を迎えたら辞めた方が良いのだろう。

 漫然とこのツイートが胸に刺さっていた。社内政治とユーザ価値について、これらは相反するのか、どうしたらいいのか悩んでいた。でも、技術者倫理として考えるなら怒っていい。そして倫理に反することをしてないか問うて、その回数が呆れるほど多くなったら辞めよう。ストレスがたまるし、それは方針が合わない。倫理を無視し続ける企業に、未来はない。そして自分が幸せになれない。

仕事のプロフェッショナルとして、ただ仕事をこなすだけでもいい。でも、それだけじゃプロフェッショナルじゃない。きっと倫理を守ってこそプロフェッショナルだと思う。社内政治をうまくやって、昇進してもらってもいい。でもそれは自分が思うプロフェッショナルではない。そして向かう先でもない。

一般に人の命を扱う職業の場合、高い職業倫理を求められると思う。その最高峰は医師だろう。医師にKPIがあって、新規の人にたくさん薬を出し売り上げを優先したら大変なことになる。だから高い倫理が求められる。

2006年版のジュネーブ宣言の主だった内容は、

  1. 全生涯を人道のために捧げる
  2. 人道的立場にのっとり、医を実践する。(道徳的・良識的配慮)
  3. 人命を最大限に尊重する。(人命の尊重)
  4. 患者の健康を第一に考慮する。
  5. 患者の秘密を厳守する。(守秘義務
  6. 患者に対して差別・偏見をしない。(患者の非差別)

といったことが定められている。

ジュネーブ宣言 - Wikipedia 

今回自分が改めてわかったものは、こうした職業倫理は飾りじゃないってこと。そして違反するのは時に自分ではないということ。企業、雇用者に対して自分の倫理と照らし合わせて考える、自分の拠り所にもなりうること。自分がこれからその職業で生きていく、その上で選択の指標になりうるものだってこと。

こうしたことは学校の授業で無理やらされたってわかるものじゃなかった。今回自分で学び、解釈できたことは本当に幸運だったと思う。7payによってこうした知識がネット上で紹介されていたのは、インターネットっていいなと久々に思えたことだった。

 

趣味の活動での倫理

ここまでは企業について書いたけれど、ここからは個人の趣味について自分なりに考えたい。企業で働いていても、個人事業主のように考えて労働力を提供しているだけと考えることもできる。フリーランスのように考えた時、趣味の活動にも倫理は関わるんじゃないか。

例えばこのブログについて考える。普通の人は倫理なんて考えなくていいだろう。自分も趣味だからと気にしていなかった。かつて書いた記事では日記帳だから、自分の好きなように書く。練習みたいなもので読みたい人が読めばいいと書いていた。なぜなら自分はプロでもない。文章を書くことは大変だから、好きなようにまずは書くしかないと。

でも仕事について倫理を守りたい、そう思うと趣味もごまかしたくなくなる。仕事や趣味で分けるべきじゃないのか。なにかを作る人間として、自分という人間が誰かが読む、使うものを作る上で守りたい倫理とはなんだろうか?

 自分が常々倫理を守れているとは思えない。たまに手を抜くしごまかしたりもする。怠けることだってある。体調が悪い時、気分が悪い時もある。だから倫理を掲げて守ろうとすることはとてもとても、タフなことだとよくわかっている。

でも倫理を守らないでいることは、ストレスだ。自分がそういう人間だとわかった。プライドとかそういう言葉じゃなく、自分が守りたいと思うことがあった。

だからブログについてもそういうスタンスでやっていこうと思う。ユーザを見ないブログというのは、自分には無理なのだろう。それは苦しい道だけど、やっていくしかない。

気軽さが失われるかもしれない。アクセス数に一喜一憂するのは嫌だ。文章の書き方をユーザが読みやすいように工夫するなんて、受け狙いをしているようで嫌になる。言い訳ができない。本音は言い訳ができない、それが嫌だったのだろう。

 

おわりに

本当はたくさんの愚痴を書くつもりだった。うじうじと。でも書いているうちに繋がっていった。人に話しているとだんだん話が整理できて、問題が解決するのと同じように、書いているうちに悩みが整理される。思わないところに繋がった。

倫理とはお堅いキーワードかもしれないが、社内政治とかあるあるな悩み、ユーザーストーリーの設計とかふんわりとした単語、手法論よりもずっといいと思った。そして教科書のような堅い言葉は実戦で役に立たないと思っていたけれど、それは違った。

大きく広範な状況に合うように倫理の事例とかは紹介されているのだろう。実際に起こるのは細々とした小さなことばかりだ。それらに大きな事象を当てはめるのは拡大解釈だと笑われるかもしれない。でも、大きな事象は小さな事象の積み重ねで起きる。日頃の行いというやつだ。だから、笑っちゃいけない。

日頃から気をつけるのは神経がすり減ってしまうのかもしれない。難しいのかもしれない。でも、積み重ねていくことでいつか決定的なことが起こるかもしれない。そんな時自分の倫理に合わせて判断することを忘れずにいららればいいと思う。先達の事例を思い出しつつ。そして皆、きっとたくさんの悩みと葛藤の中で生きていることを思い出しつつ。