かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

現実を知って得られたもの


 ゲームが好きだ。極めることを楽しむのではなく、風景や物語を楽しむタイプ。最近はもっぱらVRにハマり、現実なんていよいよ要らないな、混んでいる観光名所とか行かなくて済むじゃないかと思っていた。

今じゃGoogleEarthだってある。VR化でより最高の体験へと進化するだろう。現実依存からの脱却とか思っていた。もっと仮想に浸っていいじゃないか。現実に本当に価値があるのか。価値があるものは自分の体験。その体験が自分にとってリアルなら、現実と変わらないはずだ。

 

 自分がゲームを好き、もっと言えば世界観が好きな理由は普段目を背けている。現実の自分は全然かっこよくなんかなくて、人と目を合わせる自信もない。コミュニケーションだって自信がなくて、体力もない。どこかに出かけることが億劫で、計画性もない。常識もないから馬鹿にされがちで、人より劣っていると思わざるを得なかった。同世代の人たちから二、三年以上発達が遅れた人間だと思うのに時間はかからなかった。

大人になってからは慣れただけだ。劣等感は変わらない。ただ人はそれほど人を見ないし、目を見て話すと多少まともと思われるだけ、相手も不快感なんて出さずに表面的にやり過ごす。そう言う習慣を理解しただけだ。うまくやり過ごす方法を覚えて、仕事では年齢なんて関係ないから、気にしていないだけ。なにも変わってはいない。

 

 現実の方がよかったとか現実を見ろとか、そういう人たちは敗北主義者みたいに分類していた。子供から大人になってつまらなくなった人たちが多いなら、自分は子供のままでいい。大人になれなんて言われることが一番嫌いだった。もしも、大人になった自分から子供だった自分に何かできるなら、周囲の声を全部消して、ただ自分が好きなことを誰にも責められずにやってみて、たくさん失敗しても何もおこらず、好きなことを好きと人に強く宣言しなくてもよくなるまで守ってあげたい。子供になっても、大人になっても好きなものをやることが難しい。

 

 自分にとって現実を認めることは、過去からの間違い、人生が充実していなかったことを認めるような気がしていた。リア充を羨んでいた気持ち、人と話すことを物怖じしない人たちを羨む気持ち。それを認めるよりも、ゲームに向き合いたかった。ゲームはきっと現実よりいい世界を求める人たちが作ったものだと勝手に思い込んで、それにすがっていたと思う。いい風景を思い浮かべてと言われたら、現実よりもゲームの風景の方がよかったなと思うくらいには。

ゲームは現実よりもずっと手頃に、難易度低く、もっとも美味しい部分をさらに味付けして低価格で提供してくれるものだ。それを貪るように体験していた。二次創作に浸り続け、いつしかオリジナルを見るのが疲れるとか、自分の好きな展開だけ見たい、そういう気持ちになっていたようなものだ。

ゲームのオリジナルは、現実だ。人間の創作の原点はやはり現実なのだろう。それを否定するためにさらにゲームや小説とかにはまっていたと思う。もし現実の方がよかったのなら、大変だ。自分で頑張らなくてはならなくなる。現実を否定するような夢が大きい、自分に都合のいい体験ばかり探していた。それはうまくいった。だからなおのことよくなかった。精神的に肥えているのと同じだっただろう。

 

 現実を旅することは自分にとって途方もなく巨大なもののように思えていたけど、ひょんなことから実現してしまった。旅をするには交通手段が必要だ。バスを使ったり、自転車や自動車、なんでもある。それらは何も難しいことはない。バスなどは時刻表を使えばいいし、自動車だって免許を取れば乗れる。ただそれだけだ。時間とお金はかかるかもしれないが、不可能ではない。

免許を取る方法は自分に教えるならこんな感じだ。教習所のドアをまずはくぐってみなよと。Googleなどで検索しても実感がわかない。実感とは現実の一歩の行動から生まれるのだろう。自分で何か一歩動くこと。もしかするとそれがゲームと現実のなかで省かれがちなもっとも重要なことなのかもしれない。

 

 旅に出ても思うのはゲームのことばかりだった。そんな自分に苦笑いばかり。ああ、こんなにもゲームが好きだったのか、それとも毒されていたのか、取り憑かれていたのか。緑が綺麗な、なんでもない田舎道もゲームっぽくエフェクトをかけた図を想像したり、あれこれ似ているとか考えたりする。

 

 そして、ハッと気づいた。そうか、現実の方が広いんだと。現実が狭いと感じていたのは自分が行動してなかったからなんだと。つくづくゲームから離れられない自分に呆れるが、仕方ない。

ほんとはゲーム以上でも以下でもない、現実の光景はいっぱいある。それを自分で見ていないだけだ。自分で行って、見ようと思った景色の数があまりにも少なすぎた。GoogleEarthとか簡単にアクセスしてだらだらみる分には覚悟とか勇気が必要なさすぎる。自分で勇気を出して行動できる選択肢が少ないほど、現実の自分の世界がどんどん狭くなり、結果としてゲームの選択肢も減っていくのだろう。

 

 自分で新しいことを選ぶこと。新しいものを作ること。それには勇気が必要で、旅をしたりすると少しずつ増えていく。そんな気がした。旅の風景なんかは行動結果のご褒美で、ほんとはそこに行けた、自分でたくさんの困難を超えたことが成功体験として焼きつくのだ。一般には困難だなんて思われないことも、最初はやったことないことに挑戦しているのだから、困難で間違いない。

 

 意外なものが得られたんだな、と書いてみてようやくわかった。旅に出てみていい風景とか美味しい食べ物が食べれればいいや。人と交流にも期待しないし、トラブルが起きなきゃいいや。期待しすぎると痛い目に合うから少し冷めた大人っぽい気持ちだった。

終わった後も、ああ楽しかった、ただそれだけだった。だけど、こうして書いてみてわかった。自分は一歩踏み出せて、自分の世界が広がったことを確かめられたのだ。新しい選択肢を手に入れる、その勇気が手に入ったのだ。これは他の人にはきっとわからない感動なんだろうなあと思う。

書くまえはゲームと現実の違いとか、自分が勝手に現実に対して諦めていたこととかを書こうとしていた。VRの風景とかそっちを多く書くと思っていた。ゲームの風景とか現実の風景とか、どっちがいいとか。でも、自分が得たものはそんなことじゃなかった。ただ自分が選んで、結果が得られて嬉しかった。よかった。