かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

今日このごろ

 

ブログの更新が一ヶ月くらいストップしてしまったので、ひとまず最近なにをやっているか書こうと思う。やってることはやっぱりUnityでVRChat向けワールド建築。そして、発展してゲーム作りっぽいことをやりはじめた。

 

Unityでの建築もどきは若干行き詰まりを感じている。空間の上手な作り方がまだまだイメージできていない、作れていない。どういうことなのかというと、作るものが平面的すぎるのだ。階段や吹き抜け、四角の中に丸い開放空間を作る、段を作るなどができていない。空間の仕切りを壁ではなく、違ったもので感じさせること。その設計ができない。

行き詰まりに対する解決策はわかっている。とにかく模倣することだ。参考になる資料を集めて、自分で実際に組み立ててみるしかない。自分の好きなものを集めて、自分で作って初めて自分のオリジナリティを出す下地ができる。

だが、最近はどうにも気力が空回りしている状態だ。どうにも手が伸びない。結局今の自分で作れる範囲のものをなんとなく作ってしまう。成長がないことに悩み、手慰みに作っては成長がないことに落ち込んでしまっている。まあいずれ元気になるだろう。

 

次はゲーム作り。ずっと前からゲーム作りには憧れがあって、何度も何度も挫折してきた。買ったはいいけど読んでない本は本棚の奥底に眠っているだろう。どうにも進まない。ゲームをやりすぎているんだろう。綺麗なゲームや個人で面白いものがいっぱい世の中に溢れている。自分の目が肥えている。そして、自分で作らなくてもいいじゃんという気になる。結果、進まない。

でも今回はなんとか一つ作ることができた。いや、完璧ではないけれど作れたと自分で言える出来になった。なぜうまくいったのか、それはゲームを作ろうとしなかったからだと思う。ゲームという単語は、自分にとって遠すぎる、大きすぎる目標だったんだろう。

 

たぶんゲームを作っている人はわかっていることだけれど、ゲームを作るなんて大したことではない。”売れる”ゲーム、”面白い”ゲーム、”大作”ゲーム、”バズる”ゲームを作るのが大変困難なだけだ。簡単なゲームっぽいものは本当はすごく簡単だ。そうは言いつつ自分は何年も作れなかったわけだが。

ゲームは簡単に言えばユーザが何かを入力して、画面にその結果が返ってくればそれでいい。ゲームと呼べるものはいくらでもある。電卓すらゲームになりうる。早打ちする、なるべく9つの数字を使って答えの数字に近づけるとか。ゲームは色々あって固定概念に囚われてはいけない。

というかゲームとそれ以外の境界はものすごく曖昧だ。ノベルゲームは絵が動いてもいなくてもいい。極端な話、絵も音楽もいらない。選択肢すらもなくていいかもしれない。じゃあ Kindleはゲームなのか?ゲームブックというものを作ればゲームと言えるかもしれない。それくらい、世の中のいろんなものはゲーム化することができる。ゲーミフィケーションなんても言われるからだ。

 

自分にとってゲームを作る=過去にプレイしたことのある面白かったゲームのあの要素とあの要素を足した爽快感あるアクション…。そういう浅ましい考えがよろしくなかった。それはもう、難しすぎる。初心者にはあまりに遠すぎる目標なのだ。だからと言ってWindowsピンボール以下、マインスイーパー以下のゲームを作って嬉しいのか?喜べる人は素直でいい。自分は全然素直じゃなくて、だからダメなんだろうと思うが…。

もっとゲームという物づくりのハードルを下げつつ、自分に満足のいくものを作りたい。その結果、自分に合っていたのは”試す”っていうことだと思う。ゲームを作るのではなく、この動きを試してみよう。こういう挙動を入れ込んだらどうなるのかためそう。できるかやってみよう。ただそれだけで、あとは知っているパーツを組み合わせればゲームになりうる。

3Dの物理シミュレーションで動きを見て楽しいなと思う。じゃあそこにユーザが自由に入力を変えられるようにしてみる。何かスコアをつけてみる。これでゲームだ。とりあえずインタラクションがあればゲームと言ってもいいんじゃないか。逆にインタラクションがないなら、アート作品でもいい。じーっと見て飽きないもの。それでもいいじゃないか。

自分がなにを作りたいのか、なにをしたいのかを考えなきゃいけないなと思う。ゲームに拘らずに、自分の作りたいものを作ればいい。でもそれでいいのかも悩みつつ、色々試して悩んでの繰り返しだ。なかなか、どこにたどり着くのかわからないものだ。