かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

光をデザインするということ

 

自分が人と話す量が多い時は、頭の中のことを整理できていなかったり、悩んでいる時。そうわかってはいるけれど、ずるずると話し続けてしまうことも多い。話しているうちは気分が良くて、その時はいいけれど終わったあと一人になったら大反省会。最近そんな感じなので深く反省したい。

話す量を減らして聞く余裕を持ちたい。聞くには自分の心の余裕を持つこと、悩みを減らすことが大事だ。たぶん外に出たりゆっくりゲームしたりすることも自分にとっては大事なこと。これらに罪悪感を覚えて控えるのはあんまりよくらしい。

 

今週の土日はだいたい家で建築分野の光の勉強をしていた。本を五冊も買った。高かった。だからしっかりと勉強しなきゃと意気込んで、あまり成果は出なかった。極端に画面にかじりついて学ぶのは効率が良くなかったなと思う。外に出てのんびりしたり、もっとゲームでリラックスすればよかった。

 

建築分野の光の勉強をしたかった理由は、まあVRChatのワールド制作をしたかったからだ。というか、安上がりでVRで3Dの光のシミュレーション結果を綺麗に見れるのがVRChatの良さである。現実だと一体いくらかかることやら。なのでわりと経験しにくいことを手軽にできるのが楽しくてつい夢中になってしまった。

元々建築は好きだった。家を作るのが将来の夢だった。もっと掘り起こせば、レゴとかそういう立体で何か積み上がって、バランスが取れてるのが不思議かつ面白いというところに原点があったと思う。

 

光の美しさに惚れない人はいないと思う。そうじゃなければ宝石なんか売れやしないだろう。光の美しい世界にはついつい惹きつけられてしまう。その場にしばらく釘付けになる。夕焼けも、満月もとても美しい。同じようによく設計された間接照明とか、美術館の計算された照明とか、そういうのも好きだった。

ただまあ、正直なところ自分にもできるんじゃないかな?と思わないでもなかった。要は光なわけで、間接照明とは光源が直接見えず、壁とかの反射でぼんやり照らせばいい。

しかも建物は極論すれば三つしかない。壁、天井、床。そのどれを照らすかだけだ。…そんな甘い考えを持っていたから、勢いよく本を買ったりUnityで色々いじっていたわけだ。

 

しばらくライティングについて勉強をして、実際に手を動かして見てわかったことがある。光そのものの強さとか色はまあそんなに難しくはない。Unityでいじるぶんにはとても簡単。光の形、拡散具合もパラメータでなんのそのだ。じゃあなにが問題か?

 

それは、なにを光らせるのか、どこを光らせるのか。なぜ光らせるのか?

 

当たり前なことかもしれないけれど、実はとてつもなく難しい。まずなにを光らせるのか?これは床、天井、壁という役割に対してと素材に対しての意味がある。床を光らせる…床の素材はなんだろうか。何センチほど光らせようか。目に入らないように調整しようか。

 

まず素材を選ぶことから難しい。というかライティングの前に素材は決めるべきである。素材を決めるには、コンセプトがいる。どんな雰囲気にしたいのか、どんな目的の部屋なのか。それを差し置いてライティングをすることはほぼないだろう。つまり、絵を描く前に額縁に気合入れてもあまり意味がない。素材とか構成、やりたいことを決めた後でどう際立たせるのかを考えなければいけない。

また光には別の意味もある。アート性だけではなく人の誘導、めじるしだ。光っているパネルがあったら普通は操作できるんじゃないかと思う。暗い夜道、一際輝く建物があったら人がいそうで、助けてもらえそうとか思う。歩ける場所を光で照らしてもらえば、脇道に逸れて迷うこともない。

 

全部が全部最高に明るいとメリハリもなく、疲れる。かと言って全体的に暗いとどこにいけばいいのかわからなくなる。意味もなく光っていても、確かに綺麗ではあるがそれ以上でも以下でもない。光を放っている必要もなく、実は別なものでも代替可能である。じゃあ光はなんのためにあるべきか。

 

光をデザインするということは、光自体に目的を持たせることなのだろう。目的もなく光をいじってもなんの意味もなく、それはデザインにはならない。そういうことなんだろう。つまり構造が主であり、建築の目的そのものを強調したり、人の注目したいと思うところをそっと支えるような気配りが大事なのだろう。

光が光です、と自己主張して関係ないところを照らしてもあまり感動がない。役に立つ照明であること、デザインの意図や意味をきちんと考えて使うこと。その域に自分が達していないことを痛感した。