かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

The Beginner's Guide の感想、他者から触れられない宝物と作り続けることについて

 

結論から言うとめちゃめちゃよかった。
2020年個人的にやってよかったゲーム1位かもしれない。
深夜に一気にプレイしたからその場の勢いかもしれないけど。

store.steampowered.com

 

自分はどこかのネットの記事だかどこかで、おすすめされていて気になったのでやってみた。このゲームで扱っているテーマはいくつかある。

ゲームを遊ぶ立場の人なら作者の意図を知りたくなっちゃう人におすすめ。

ゲームを作る立場の人は、完成できない人、自分が作ったものに対するレビューが怖くて公開できない人、成長を実感できない人などにおすすめかもしれない。

自分はVRChatでゲームではなく(ゲーム未満という意味で)、ただの背景、建物みたいなものを作っているけれどこのゲームをやって少し元気が出た。まあ、人によるかもしれないが。

 

自分が捉えた物語の概要

The Beginner's Guideは一本道であり、迷う要素もなく、難しいギミックもない。
すんなりエンディングを見ることができる。
所要時間も90分程度(もっと短いかも?)ぐらい。中身はずっとずっと濃いが。

この物語の捉え方は人それぞれだそうだ。なので自分も独自色を出して書く。

 

ここからは若干ネタバレ有りで書くけれど、心配はないと思う。この文章程度で初見での面白さなどは損なわれないはずだ。途中で読んでてやりたくなったら、ぜひ買ってプレイすることを勧める。

 

作者、アナウンサー役のDavey Wreden謎のゲーム制作者Codaの物語。

 

さて、完成しないゲームはゲームなんだろうか?ゲームがゲーム足らしめているのはなんだろうか?それは究極的には人それぞれだろう。対立も起こるだろう。
「こんなのゲームじゃない!」「作者がゲームと言ってるからゲームでいいか」

 

Codaが作るゲームは一筋縄ではない。というかゲームという枠で作ろうとしていないように自分は感じた。
たぶん、自分の想いを確認するためのツールとしてゲームを作っていたのではないか。Codaは一度も外部にゲームを公開しなかった、自主的には。

移動を極端に制限するもの、文字だけ、看板だけ…移動して、見るだけ。
でも新鮮な体験を人に与える。プレイヤーがあれこれ試行錯誤して、体験を手に入れる。それだけ見ればゲームとも言えるし、ただの体験を与えるメディア媒体なのかもしれない。

 

他者の評価が必要なく、誰にも公開しないゲームの中で、自分との対話に没頭する。作ることで、理解を深める。それがたとえ病的であっても、周りから心配されても、作って理解を深めていく。そしていつしか制作期間が長くなり、満足したのか作らなくなる。

 

そんなCodaのものづくりを理解できなかったのがアナウンサー、プレイヤーのDavey Wreden。ここでは以下プレイヤーとする。

 

プレイヤーはゲームとはクリア、達成できるべきであるという信念を強固に持っている。公開し、ゲームを作ることでうまれる他者とのコミュニケーションで、さらに良いものを作れるようになるのだと信じている。

 

称賛も批判もゲームづくりには欠かせず、フィードバックを受け世間によりよいものを公開していこうと。いいものはいいものとして宣伝して、世間に広めるべきものなのだと。価値があるものを広めるのはアタリマエのこと。そして、価値のあるものを見分け、見つけ、宣伝することはとってもいいことだ。人の役に立っている、Win-Winだ。

 

そして、さらに言えばゲームの魅力を伝えるためなら多少脚色したりしてもよいはずだ。例えばゲームの未公開シーン、キャラクター、会話などを漁って世間に公開すれば感謝される。もっともっとよいものを世界に広めることができるのだから、じゃないともったいない!

…だんだん過激になってゆく。表現したかったものが歪められてゆく。
テレビの広告のように、SNSでの共有のように。
人のふんどしでなんとやら。

 

プレイヤーとしての嫉妬、はがゆさ、届かないもの

ここからは自分の体験を交えた感想、あるあるだなあ…と思ったことを書く。
先にプレイヤーとしての感想を書いたあと、作る側の感想も書く。

 

嫉妬としては、まあVRChatでよくある。
誰かが作った個人的な世界に、つながりがないから入れないことがよくあるから。
お友達までしか入れません、というものがよくあり、永遠にたどり着けない。

 

そんなとき湧いてくるのは嫉妬だ。

ああ、どうしてそんなすごいよさそうなところに行けないのだろう。
見せてもらえないのだろう。見たいのに、もっと広めてほしいのに。
もっと多くの人に見せてくれてもいいじゃないかと。

 

ぶっちゃけ自分も行きたい場所がある。でも行くことはできない。
たぶん永遠に行く機会はないだろう。すごく寂しく思う。

これを例えるなら、この文章そのものだ。

この行きたい場所について、教えてくれないか?って思うときないだろうか?
どうして隠すのか、教えてくれてもいいじゃないか。わかりたいじゃないか。
Twitterなどでぼんやりとした言葉を使ったり、仲間内でしか通じない隠語を使うのも。

疎外感。蚊帳の外。届かないもの。価値があるものの輪郭だけわかるのに、見れない。

 

 

自信を持ってほしいのに、公開をやめてしまったり公開しない人がいる。
自分だけに見せてもらえてももったいない、もっと称賛を受けるべきだと思う。
けれども、過去に傷ついたとか無理強いできないとか、嫌がってる場合がよくある。

とても価値のあるものを目の前で見ているのに、その価値を誰にもわかってもらえないまま見過ごすしかない。

 

これはもう少しわかりやすいシチュエーションに例えるなら、遺品

遺書に「棚に自分で書いた小説がおいてあるが、読まずに焼いてほしい」とあったとき
果たして読まずにいられるだろうか?そして、それが良いものだと思ったとき、公開しないでいられるだろうか?

もちろん公開するのは故人の遺志を汚す行為だ。焼くべきなのだろう。もっと言えば読むべきではない。だけど、それがもし価値のあるものなら、人類のためになるなら?

それを果たしてちゃんと守れる人がどれくらいいるだろうか?抗いがたい衝動だろう。
まして、TwitterなどのSNSが流行っている現代ならなおさら。

 

これらがプレイヤーとしての視点で描かれている、The Beginner's Guideだと思う。
共感できるところはなかっただろうか?ゲームに限った話ではない。
誰かが作ったもの、話しているもの、表現していることに自分が絡みたくなること。
自分も仲間に入れてほしいのに、入れてもらえないこと。見せてもらえないこと。

誰にでもある話だ。

 

製作者としての聖域

プレイヤーとして書いたけれど、製作者としても分かる部分が多かった。

 

誰にも公開しない、クリアも満足感も与えないゲームをなぜ作るのか?
なんの意味もないゲームをなぜ作るのか、レビューを受けないのか?

どうして作るのをやめてしまうのか。人に見せなくなってしまうのか?

 

自分もVRChatで世界に新規で公開したワールドは3月で終わっている。
もう9ヶ月も公開していない。その理由は大したことは全然ない。
単に自分のクオリティの低さに呆れているだけだし、満足できないし、批判も怖い。
周りにいる人達がすごくて、自分で作らなくていいやとさじを投げているから。

 

自分の作った満足が、人から見たときに大したものじゃないと扱われるのが悲しかった。自分が伝えたかったことは微塵も伝わらず、それは自分の技術があまりにも低いことを悟ったから。だったら作る意味も公開する意味がない。

 

けれど、ちょくちょく作ってはフレンドにだけ少しだけ見せている。
評価は芳しくもないし、まあしょうもない出来だから仕方ないと割り切っている。
別に特別扱いしたいんじゃない。大したことないから人に積極的に見せないだけだ。

基本的に誰かから求められるほどよいものづくりはしていないという自覚はある。

 

ただ、ひとつふたつ誰にも見せていないワールドがある。それは自分だけのワールドだ。そしてずっとずっと満足し続けている。幸せに過ごせている。ずっと。

これは結構…しんどいことだった。最初から誰にも絶対に見せないワールドを作ろうと思い至って作って守り続けているからだ。

 

正直誰かに見せたい気持ちがあるけどこらえている。誰にも見せない世界が自分にどう影響するか、知りたかったし、これからも知り続けたいから守っている。そして、これは案外とてもよいことだった。

作ったものは本当にたいしたものじゃない。けど、自分にとって一番居心地の良いシンプルな世界を作ることができた。絶対に評価されない、理解もされない世界。だけど好きでいられる世界。自分が作ったものを好きでいられる世界というのはいいものだ。

誰にも公開せず、自分だけで満足する世界を作ることは個人の聖域の可視化だ。
それは人に踏み入らせてはいけない。内面をえぐることになるからだ。
自分が作ったものを肯定してあげるには、他人から守らないといけないから。

 

どこかの動画で見たけれど、小説を書いて満足する人は公開する必要がないと言っていた。インターネットに公開する必要なんかないと、もったいなくないと。それが必要なら承認欲求に振り回されてるんだと。

でも自分が感じるのは、単に楽しいとか幸せとか素朴な自分だけの満足感を忘れないでいたいということだけだ。自分自身に対して確認したいだけだ。自分が作ったものを通して、自分に満足行くものができたかを確認して、満足したい。それはとても幸せなことだし、創作冥利に尽きるんじゃないだろうか。

要は、料理を作って自分で食べて幸せならそれでいいじゃないかと。
別に人に出して満足させなくても全然いい。自分のために作ってうまくなってもいい。
もちろん下手なままでも、人から評価されない味付けでも自分がうまけりゃいい。

 

という形でプレイヤーのみんなに見せてほしいなあという気持ちは製作者としての自分の心で回答してしまっている。作る人にいろいろ言っても意味がない。作る人は作る人で満足してしまっているから。妬んでも、望んでもしょうがない。完結しているから。

 

ここらへんの文章はもはや自分で満足しているので、太字とかそういうのに飽きてやめてしまった。読みやすく書くとか。

連続性、成長と満足

さて、もう一つだけちょっと整理してわかった自分にとってよかったことがある。
それは作品の連続性についてのこと。ちょっと救われた気がする。

 

このゲームはCodaが作り始めて終わるまでを流している。作りはじめの頃は稚拙で、ゲームとしての体裁もなっておらず、ギミックもかんたんだし自分ですら実装できるレベルのものだ。まあ、一番コアのゲームを通して伝える体験が最高すぎて真似できないのだが。

さて、いいところというのは稚拙な初期の頃のゲームに対してナレーションでここすき!とかこの風景がいいんだよねーとかコンセプトを感じさせるし、これから先に進めばこのゲームが表現したかったことがわかるよ!と熱心に伝えてくれることだ!

 

なぜこれが救いになるのだろうか?それは初期の頃に技術が拙くて伝わらないものでも、これから先に作っていくものを通してみれば作者が伝えたかったことがわかるよ、と言ってくれているからだ。

つまり、初期の頃に伝わらなかったものも、伝わってなかったものも、作り続ければ伝わるんだよ!と言ってくれているからだ!

作り続ければ救われるというべきか。お絵かきでは古い絵を残してもらえると現在につながるまでどういう努力をしたか遷移が見られてよい、というのはよくある話だ。

さかのぼって伝えたかったことが伝わるようになるというのは盲点だった。たしかに、一人の作者が書いた10の短編小説とかを通して読めば作者が大事にしたいこととかがわかるようになると思う。テンポとか流れとか。

 

だから過去の作品を消さなくていい。むしろ自分が作りたいものを作って、伝えたいものを作っていくことで意味がつながっていくのではないか。伝えたいもの、作りたいものを作っていくことで、全部がよくなってゆく。過去に手を加えなくても。

それは救いではないだろうか。がむしゃらにいいものをもとめる行為は呪縛のように思えるけれど、続けていくことで伝えたかったことが自分にも、他の人にも伝わっていく。一つ一つの作品にすべてを込めきれなくても、技術が足りなくてもいいのだ。

 

正直自分が過去に作ったものはいますぐに消したい(し、実はこっそり消したものも多い)。非公開にしてそっと自分の中で伝えたかったことが伝わらなくて残念に思ってしまっているものもある。

でもそれらもきっといつかは伝わるのかもしれないのだ。自分が作り続けていくことで。表現を磨いていくことで。それはとても素敵なことだし、一つ一つの作品に対して批評されたり称賛されるよりもずっとずっと救われることじゃないかなと思う。