かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

創作は贅沢

 

人はなぜ創作するのかを考え「贅沢だから」と結論づけたことがある。
現状に満足できなかったり、伝えたいから創作を行う。
この考えが気に入っているのは、創作に対する評価の厳しさにも適用できるから。

 

今現在、世界には創作されたものが溢れかえっている。
創作という贅沢にみんななれきっている。もっと贅沢をしたい。
贅沢なものであるからこそ、みんな満足するためのハードルが高い。
創作は、人を満足させるためには、ずいぶんな苦労が必要だと思った。

 

もう一つ最近になってようやく気づけたことがある。恥ずかしいけれど。
それは自分がいかに傲慢だったかということだ。
難しい問題から目を背けるために傲慢でいた。

 

自分は人よりもいろいろ考えてるとか文章にまとめて思考を整理している。
だから考えることについてはある程度、問題ないだろう、そう信じていた。
だがこれは完璧に間違いであり、気づくことが遅れたことを後悔している。

 

きっかけは、物語だとかそういうことについて考えていたとき。
人はなぜ物語を作るのだろうか?創作を行うのだろうか?
なぜわざわざ他人がどうこうした話を書いたり、幻想的な背景を描くのか?
写真にも構図に視線誘導を混ぜて、なにかの意図を示そうとする。
なぜなのか?なんのためにするのか?

なぜ言葉で説明できない、シンプルに説明ができないのだろうか?
そうしない理由はなんだろうか?

 

たぶんだけれど物語などが伝えようとするのは事実や説明なんかじゃないのだろう。
体験を伝えようとしているんじゃないだろうか。

 

幻想的な物語の中、主人公が悲劇的運命により身を投げ出すような行為に出たとき、主人公の内心を悲痛に語らせれば、読者は我が事のように胸がはりさけそうな気持ちになるだろう。

強敵との激闘のシーンでは熱くなるし、人を守るために奮闘している場面では同じように勇気がでてきたり奮い立つ気持ちになる。

それは劇中の登場人物の自己投影みたいなものだろう。内在化というのか、専門用語は詳しくわからないが、自分の心の内側に描写を持ってきて、シミュレーションすることだ。

 

 

人はそれぞれ同じことを同じように感じることができない。
例えば夕焼け空を見て、どのように感じるのか。どんな気持ちになるのか。
そこから生まれた気持ちを人に伝えたいなら、どうすればいいのか。

ある日の夕焼け空は、財布を落として無一文で、冬の寒さの中とぼとぼと堤防を歩く道すがら、ふと見上げると真っ赤ではなく黄色みの強い穏やかな色合いでその色を見ただけで少し得したような気分になった、とか。

 

でも、こうして言葉で書いた内容を振り返ってみてわかることがある。
これはただの説明なのだ。状況説明の文章でしかない。
説明文を読んでも状況や情報が読み取れるだけだ。

人はこの説明を読んだところで、体験にはならない。おそらく何も感じない。
自分のことのように思ったりしない。自分でわかった、とも思えないだろう。

そこで物語を書いて登場人物の描写をしっかりして、文脈を用意して、しっかりと内情を描きつつ書く。すると、ああ、こう感じたんだな…そういうこともあるよな、と受け入れられる。たぶん創作とはこういうことなのだ。

 

人は贅沢なので、自発的に自分ごとにして真剣に受け止めてもらえることはほぼない。
だから体験談やシミュレーションによって自分の体験に変換してもらう。
例えば地震の恐怖を知ってもらうには説明だけじゃ足りない。
被災者の体験談、映像、VRシミュレーションなどを駆使することで、ようやくスタートラインに立てるのだろう。

人は簡単に能動的に情報を自分のことのように受け取ることはできない。説明ではただ流されて終わるだけだ。受動的な伝達でなく、能動的に取り込んでもらうには体験が必要だ。

 

人に自分が得た体験、感じたことを伝えるには、説明だけじゃきっと足りない。
だからきっと物語がある、ゲームがある、音楽も写真も、いろんな創作がある。

ここで聖書を持ち出すのは卑怯かもしれないが、創作の原典みたいなものなので出す。
聖書だってまあ、全部伝聞調によるある種の創作だろう。
他人事をもとに、自分もそう信じよう、そういう行動をこころがけようとする。
そして人に同じように思ってほしいのなら、物語を勧めるだろう。

人はきっと物語や創作によって体験を伝えてきたんじゃないだろうか。

 

さて、創作とはなにかが自分の中で整理できたので改めて考える。
つまり創作と説明は違う。状況説明をしても人には伝えたいことが伝わらない。
たぶん創作とはこんな形で生成されるんじゃないだろうか。

自分が体験したこと、感じたこと->分解、抽出、再構成->物語、創作

 

いったい自分がどんな体験をしたのか、それを言葉にして説明できるのか。
なにを伝えたいのか、それを細かく分解できるだろうか。
伝えなくていいものはないか、少なくできないか(多いと発散してしまう)
伝えたい内容を別なものに抽象化して、模倣できないだろうか。
それをどうやって人に体験できるように設計すればよいか。

 

なにかしらの創作をやってみて感じるのは、自分の体験したことに対する解像度が低すぎるのではないか。こんなにもブログを書いて、文章を書いて、思考を整理しているのにも関わらず、もんのすごい…足りない。まったく足りない。

本当は足りていると信じたかったのだろう。自信が揺らぐから、1から学び直すのが大変だから。怖いから。いままでやれていたと思っていたものが、完全にゼロ、無だと認めるのは非常にきついことだ。

 

 

youtu.be

またさいとうなおきさんの動画か…と思われるかもしれないけど、この動画がまさしく答えだった。「もう知ってる」ということを「もう知ってる、気をつけよう」そう思っていてだめだった。

自分の中で考えること、理解することとかはできていると思っていたけど、それは創作において考えるならゼロだということに思い至っていなかった。足りない。

 

創作は贅沢品。贅沢なものをみな思う存分手に入れて、評価はますます厳しくなってゆく。そんな中で自分も頑張りたいと思うなら、わかっていることも振り返える必要がある。視点や立場が変わればまたはじめからやり直しになる。そうすると新しい発見もたくさん出てくる。怖がらず、自分は全部知っていると思わず、ゼロから始めることを恐れずに学ぶ必要がある。忘れないようにしたい。