かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

家は形や機能性だけではないのかも

今日の記事はあっちこっち飛ぶ。一つのことを深く考えたら、そのことを他のことに応用して考えられないかとよく考えるから、話題があちこち飛んでいるように見えると思う。ただ、大事なことは全部に共通していると信じている。

 

このところ写真についてずっと考えていた。
いい写真とはなにか、なぜよいのか、なぜ撮るのか。
撮った写真を見てなぜ感動したりするのか、撮った人の意志はどのように伝えられるのか。

 

人間の認知によってどのような感情を想起するのか。どのように感じてほしいために、構図などを工夫するのか。
なぜその写真は撮られたのか、作品としてどのようにつながってゆくのか。
かなり難しい問題だし、まったく答えが出てこないことをずっと考えている。たぶん大事なことだから。

 

考えを進めていったとき、気づいたことがある。
人は様々な形がつらなったものを見たとき、様々な感情が起こる。類似したり対比したり、印象が発生する。
散歩をしていたとき、ふと駐車場にとまっている最新の車の形を見た。
かなりシュッとした、銀色のかっこいい高級車だとわかる。だが、なぜかっこいいと感じるんだろう。
車には目つきがある。図体が大きい、小さい。全体として鋭い、丸っこい…いろんな擬人化のような気持ちが起こる。

 

この擬人化がポイントのように思う。
人は消しゴムに黒い点をふたつに一本黒い線を引いてみればそれが顔文字に見えてしまう。消しゴムのあっという間の擬人化だ。それくらい人はなにかに例えたりするこが好きなんだと思う。

 

最新鋭の車を見たときにまずメタリックで磨かれていて銀色にきれいに反射する。そこから高級さを連想する。
貴金属は高いし、加工が難しい。それを優美な曲線によって形作られている。
カーブのきつさなどでまた印象が変わる。どこまで伸びているかによっても。
目つき、ヘッドライトの形状はどうだろう?丸ければ柔らかいし、細ければ厳しい目つきに感じられる。
口はどうだろう?ナンバープレートの近くのフロントグリル。その色は、大きさはどうか。
全体に調和しているだろうか?体つきは大きいだろうか。小さいだろうか。
そういったことが印象に大きく関わる。それをうまく配置したりするのがデザインなのだろう。

 

車のデザインはどのように誕生するのだろう。そして車のデザインは所有者に、見る人にどんな印象を与えるだろう?
車の外装は乗ってしまえばぶっちゃけ関係ない。見えないからだ。どうして気にする必要があるのか?
それは人間の体も同様だ。自分の体も服装も自分からはだいたい見えない。鏡で全身を見ることがない限り。
でも人間は着飾る。スーツや制服を着れば気が引き締まるし、かっこいい服をきればいい気分になったりする。
同じように車によって与えられた印象で人間の気分が変わってゆく。その気分のために自分の好きな車を買う。

 

車のデザインとは買う人に対して、その人のなんらかの感情に働きかけるものだ。
それは意図せず発生する場合もある。究極の速さを求めたデザインが、先進的と感じる人もいるだろう。
AIによって制作された有機的デザインを生きていると感じる人も不気味という人もいるはずだ。
人の想像には余地があり、全員が同じ想像をすることはたぶんない。
曲線が際立ったデザインを鋭利で危険なものと感じる人もいれば、耽美的と感じる人もいるだろう。
もしくは、誰も知らないアニメのボスキャラに似ているなんて言う人も出てくるかもしれない。

 

デザインはおそらく人にどのような感情を与えるかを考えて設計されるが、
意図通りにならないように最大限努力しなければならないのかもしれない。
つまり明瞭にコンセプトが伝わることを重視しつつ、間違った印象を与えないようにコントロールする必要がある。
直線、曲線、円、色、素材。そういったものの組み合わせで人に与える印象を、作った人の意図通りになるようにする。

 

ぼんやりとデザインは意識してもしなくてもついてまわるものだと思った。
単に機能のために整列させて貼ったポスターが、ディストピアのような印象を与えてしまうこともある。
笑顔いっぱいの写真をトイレに貼ったらあざ笑うような印象を受ける、落ち着かないと批判を受けることもある。
だからこそデザインが必要なのだろう。人の感情を想像することが。意図しない感情を刺激しないように。
そして意図するような感情を想起させるために。

 

 

さて、自分はずっと建築についても悩み続けていた。家の形はどうあるべきだろうか。
部屋の中はどうあるべきだろうか。家において外見はどれほど大事だろうか?部屋の中にいれば見ない外の形。
どのように設計したらいいだろうか。
この悩みについてもたぶん、車のデザインと同じなのではないかと思った。

 

家とは単に機能を詰め込んだものではきっとないのだろう。
キッチンでは料理ができること、洗濯物の整理がしやすいこと、掃除がしやすいこと。
リビングではテレビがあり、5人座れるようにして、寝室では本棚付きでベッドは大きめで。
こういった機能要件がいっぱいあり、パズルのように敷地に対して組み合わせればよい家が作れるのだろうか。
そして、パズルをうまく作ることこそが最も大事だろうか?機能を優先することが自然で、それ以外はしょうがないか?

 

たぶん違うんじゃないだろうか。たぶん家を作る上で大事なのは機能も大事だ。
だけど、そこで住む人の気持ちを想像し、その気持ちを増幅したり、余計な気持ちを与えないようにデザインするのが大事なんじゃないかと思った。
ちゃんとストーリーのように、そこで住む人がどのような一日を送るか、シチュエーションを想像すること。

 

雨の日にどんなリビングの照明で過ごすことで、どんな気持ちで人は過ごすことができるだろうか。
晴れた日に庭でどのような時間を過ごすことができるだろうか。一息ついて落ち着いた時間を過ごすスペースはどこだろうか。
どんな風景を見て仕事をするような部屋がほしいだろうか。
夜、どんな場所で、どんな椅子と机でご飯を食べてどんな気分になりたいだろうか。
寝る前の寝室ではどんなことができるとよいか。
どんな色の寝具や照明で、朝目覚めるときどのように日が入ると嬉しくなるだろうか。

 

機能はもちろんあるけれど、そこで過ごす人がどんな気持ちでいたいか。どんな思い出を作ることができるか。
そういったことがデザインとして必要なんじゃないかと思った。
今まで自分は機能面ばかり気にしていた。風景などには気持ちが向かなかった。
なんというか、これはゼロからまたやり直しというか再スタートだなと思っている。
なにかを作るときに大事なことをまだまだ自分はわかっていないように思う。
これからもゼロからまたスタートし直すことを恐れずにいろいろ考えたい。