かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

言葉じゃ伝わらない

 

言葉、文章でたくさん説明すれば人にわかってもらえると思っていたが、それは勘違いだとようやく気づいた。別にネガティブな話じゃない。
自分の気持ちを人に伝えるのに言葉、文章で足りるなら、他の創作活動は生まれなかっただろう。

 

伝わらないものがある、理解されないものがあるから、絵、写真、物語が生まれる。
どんな手段を用いても人に気持ちは伝わらない。だからこそ解釈が生まれる。
どうせ伝わらないのなら、好きに解釈してもらっていい。

まあ100%伝わることはないが、70~80%くらいの範囲で想いが伝わることがある。(と錯覚してるのか、どうなんだろう)似たような感じで、だいたい伝わってくれればいい。
たとえ話をすると正確な真実、気持ちから少し離れるだろうけど、大事なポイントは伝わる可能性がある。それがフィクション、物語のことなんだろう。
大事なことは、モチーフになにを選んでも伝わるのではないか。その程度、人は惑わされず見抜くことはできるはず。だから、自由な創作が成立するのではないか。

 

写真の構図について本に書かれていたのは、伝えたいことをモチーフを組み合わせて作れということ。自分が感じ取ったこと、大事にしたいことを”線”で強調する。”線”には空き瓶だとか、電柱だとか、木を使う。集中線のように組めば、構図の完成だ。

人の存在を強調したければ、他の風景は規則正しく、人工物で囲めばいい。色も無機質にして、人の色が目立てば伝えたいことはわかるはずだ。

 

なぜ創作するのか、物語を書くのか。自分の感じていることをそのまま書くだけなら、ブログとかエッセイをかけばいい。でも伝わらないし、理解されない。たぶん理解されるために書くわけでもない。自分の中にある似た気持ちを探したいのか、他のなにかを組み合わせて、なんらかの結末に到れるか検証するのか。

 

なぜその物語は作られたのか?どうしてそのモチーフが選ばれたのか。どこから着手されたのだろうか。そんなことを新年からずっと考えている。考えているだけで進捗らしいものがない。困ったから、少しわかった気がすることをブログに書いてみたわけである。