かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

運命の皮肉

僕らの選択は正しかったのか?(VRChat: PROJECT˸ SUMMER FLARE — by y23586)

ゴールデンカムイを全部読み切った。で、物語って「あのときこうしてりゃ話早かったのに…なんで…」という場面が多い。だが、それは”物語”として正しい。

 

例えばなんだが、序盤でのちのち厄介になる敵を仕留め損なう場面があるとする。
主人公が少し躊躇してしまったとき、ふっと意識を外したとき逃げられる。
で、最後の最後までものすごーく厄介な邪魔をひたすらしてくる。

こういうのはあるある、典型的なものだと思う。
あのとき見逃さず、油断せずしっかり仕留めときゃいいのに…
そう思うのも無理はない。

 

もう一つパターンとして、あのときこうしてりゃ幸せだったはずなのに、というやつ。
例えば逃げるべきとき、戦わなくてもいい瞬間だったはずなのに、運命に立ち向かうとかそういう意気込みで戦ってしまうやつ。で、命を落としたり、大事なものを奪われたりしてしまうやつ。

あーあ、やらなきゃいいのに。とかあのキャラがどうして…あんな簡単な選択、運命の悪戯に翻弄されてしまうなんて認めたくない…となる。

 

それに対して二次創作ではあのキャラが生き残る!とかあの選択をしない!とかでストーリーが展開されがちだ。一見して満足度が高そうに思えるのだけど、実際にはうまくやらないといいストーリーにはならない。

 

運命の悪戯、たった1秒の油断、些細な選択。そういった理不尽なことがなぜ物語ではよく現れるのか?厄介な敵、序盤で雑魚だったはずのラスボス、最悪の行動をとってくる親友だったはずの敵。本心では絶対嫌なのに従わざるを得なくなってしまった元パーティメンバー。どうして救われないような物語が展開されてしまうのか。

 

物語の作り方の本を読んで書いてあったのは「主人公が葛藤を経て、変化しなければ物語ではないから」。つまり平凡すぎる、当たり前すぎる、運命のない話は物語にはならない。主人公になんの影響も起きないものも、また良い物語ではないのだ。

たった1秒油断して運命が狂ってしまうのは、主人公に強い後悔をもたせ、絶対に今後敵には容赦しない、自分の運命に断固として立ち向かう強い姿勢へと変化させる必要があるから。

厄介な敵が何度も何度も主人公の前に現れるのは、そのたびに読者が主人公の心・体の変化を確認できるから。強くなってるのか、決意を固めることができているのか。何度も現れる敵はそのたびに新しい問題を突きつけ、主人公に覚悟を促す。物語を前進させるために必要なのだ。

 

最初っから記憶を取り戻してればこんな苦労はしなかっただろうに、なんで思い出さなかったのか、なんて話もあると思うが、思い出してしまったら物語にならないのである。思い出す前に覚悟とか人々の想いに応えようと自ら変わっていった上で、鍵となる記憶を呼び起こし、最後の運命に立ち向かう。それが物語なんだろう。

 

とまあ、ゴールデンカムイを読んでて時折「なんでこうなっちゃったのか…」と何度も思う場面があり、そのたび「いやいやこれでこそドラマチックな漫画なのだ、これは必須なのだ」と思い直したわけであった。