かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

彼女系生命進化論パーフェクト☆ガールをプレイした

 

メタい。

Twitterでおすすめされていたのでプレイしてみた。

www.freem.ne.jp

ブラウザでプレイする方法がわかりにくかったのでDL版をプレイしてしまった。

 

かなり下のほうにスクロールして
「このフリーゲームを今すぐブラウザで遊ぶ!」
のところのボタンを押すとプレイできる。

ここからは感想を書くので、ぜひプレイしてから読んでほしい。

 

とはいえ結構怖いのでご注意。
自分の場合はビビりながら必殺・薄目戦法でクリアした。
寝る前に見るとよろしくない夢を見そうな感じの怖さ。

 

自分の向き合ったものに答えを出せる強さ

クリアして思ったのは、自分の向き合ってきたものに答えを出して、それを創作できる人は強いなーということ。この場合、作者が美少女ノベルゲームに費やした時間になんの価値があったのか?を自ら問いかけ、答えをだしているように感じた。

 

この手のゲームはルート分岐があり、真エンディングにたどり着くには他ヒロインを時に切り捨てる必要がある。そこに罪悪感を感じるというわけだ。じゃあ自分の感じた罪悪感をどう解決したらいいのか。

こういったメタなゲーム構造に対してゲーム中で解決される例もそこそこあると思う。例えばバルドスカイとかいろとりどりのセカイとか。Key作品もだいたいそんな感じで、ループものと呼ばれるものでは成長するための犠牲扱いされがちだと思う。

 

一般にゲームをプレイしていてもここまで強い想いを抱くことは稀だろう。
自分がプレイしてきた時間に対して向き合い、それをさらに作品として世に出せるのはすごい。伏線の張り方もうまいし、選択肢に対しての意味付けも非常に面白い。

 

メタ構造の解決のための物語

一方で、ルート分岐なんてただの商業要素でしかないとも言える。
そこに対して創作者や読者側が深く気にしなくても、と思わなくもない。
いわゆるお約束というものであり、読者が受け入れるべきものでもある。

 

たぶんだが創作する側も、読む側ものめり込みすぎるとメタ構造にも意味をもたせたくなるのだろう。ゲームを周回する時に、違う選択肢を選ぶと違う未来が訪れる。

だが、それは果たしてよかったのか?それが正しいのか?プレイヤーが1クリックするだけで救われる未来と救われない未来があってよいのか?セーブとロードでそんな簡単に変わって良いのか?

 

そういったプレイヤーの選択、ゲームの構造に対して責任や全てに意味をもたせ、無意味でないことを保証したい、救いたいという欲が生まれてしまうのだろう。だが、ちゃんとゲームや読み物として理解できるのならばこういった欲は必要ない。

 

自分はTRPGをプレイしないが、通常TRPGにはあのときこうしていれば…は通用しない。自分が丹精込めて作ったキャラクターも運が悪ければロスト、消滅する。セーブとロードは通用しない。いくら面白かった物語でも、IFは楽しめない。そういうシステムだからだ。

 

ゲームをゲームとしてではなく、そこにいるキャラクターを尊重したい、救われてほしいとのめり込んでしまうことでメタ的構造に言及するようになる。

物語とは商業的に見れば「テーマを提示して葛藤させ、消費者が共感を覚え、満足すること」が重視される。そのためにヒロインがいて、世界という舞台があり、邪悪な企みや存在により平穏が乱される。プレイヤーが選択し、物語が進み、エンディングを迎える。

 

メタ的構造のために物語があるのではなく、消費者のために物語がある。

そのはずだが、逆転しつつも、最終的にはメタ的構造を解決してほしいと望む消費者のための物語になる。これは、美少女系ゲームのやり過ぎた消費者のためのニッチな、ある意味で高級な物語に分類されると思う。

 

昔はこういったメタ的な構造に対して解決を図る物語が面白いと思っていた。他のゲームではあまり見ないわけだし、”一段深い”わけで読み応えがある。いわゆる推理小説みたいな感じでトリックじみてるわけだ。なぜそうなのか、これからどうするのかわくわくする。冒険小説じみてるとも言える。

 

けど、物語のお約束について勉強したりすると無理言っちゃいけない…と思えるようになった。そこまで作者が頑張る必要はないのだ。読者が了解していればいい。分岐は分岐でそういうもの、それでいい。

オペラで突然歌い出すシーンはそういうもの、それでいいのだ。そこにメタ的解釈は必要ない。歌い出すことでメタ的に音のリズムで敵の動きを縛れるとかいらないのだ。

 

冷静な自分と感情的な自分と

冷静に批判をすることはできるけど、物語はそれだけじゃない。感情面でぶわーっとなるのも大事だなあと思う。冷静に考えればメタ構造に言及しすぎるのはやりすぎ、重すぎとなる。けど感情面ではすげー、ああ、この人は自分自身に深く向き合ったんだなと感動できる。

 

たしかにメタ的構造の解決を行う物語は面白い。だが、それを深く認め過ぎると一般の物語やゲームが陳腐化してしまうかもしれない。それはそれで厳しい。舌が肥えるというか。

メタ構造系の物語は、それはそれというジャンルでくくって楽しまないといけない。
自分自身がこういう物語が好きだし、深く共感できる。だからこそ冷静な部分を働かせて水をささないと中和できないなあと思い、批判的な点も書いた。