かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

自己を小さくすること

 

こんな話を聞いた、と書き出すのは夢十夜みたいでかっこいい。
ともあれ続けよう。他者、愛する人、家族。そういった親密な人々が危険なスポーツ、旅行、アクティビティを行うことを”あらゆる手法”で禁じるのは愛か、否か。

 

例えば紛争地帯に行って写真を撮りたいとか。そう言い出したとき、止めるべきか否か。止めるとして、家族であり貯金をいじれるのなら金を奪っておくとか。パスポートを処分するとか。

そういった物理的な力の行使もあるだろうし、精神的においつめてみることも考えられるだろう。例えば無理に行こうとすれば縁を切る、秘密をばらすとか。そうした行動は正しいだろうか?相手の生命に関わる問題の場合、どこまで許容されるだろうか。

 

これはまあ…結局のところ経験則として「どーにも止められない」というのがオチだろう。やりたい人間を止めることなど基本的にできない。他人を変えることなど出来ず、自分以外に変えられるものなどない、というのがよくある話で有名だ。なので考える意味も実はそこまでないが、ちょっと書き出しておくことにする。

 

 

しばらく考えてみて、ふと思い当たったのは 己、自己が強すぎるってことだ。
他人をコントロール、支配できると思うから、歪む。
他人に影響力を及ぼし、正しい道へ、幸せにできると信じ込む。それが過ちだ。

 

自分は仏教が好きだ。仏教的…とつくかもしれないが。

ともかく仏教の考え方はシンプルだ。自己はできる限り小さく、自分が世界のあらゆるもの、万物すべてに無力であると自覚することにあると思う。限りなく、どこまでも限りなく極小化した自己は、すべてが平等に無である世界と同一化される。そこで世間に対してのあらゆる執着をようやく捨てられるというわけだ。

 

例えばだけれども、庭にりんごの木があるとする。木には一つ実がなっている。これを永遠に守りたいと考えるわけだ。当然無理なことは誰にでもわかるだろう。だが、強く執着した人ならこう考える…「接着剤や保存療法、あらゆる手立てを尽くし保全すれば守れるはずだ」と。

実際似たような話で、奇跡の一本松が槍玉にあがる気がする。復興の象徴として松の木を永遠に残したかったが、すでに根は枯れているとわかった。だが、それでも象徴として残したい。そうした人間の執着、エゴがそれまでとは全く異なる歪な外見で、永遠に存在することになったわけだ。

 

違う例も挙げられる。例えばアフリカで何百万もの不幸な人がいる。これらの人々を救うことは一個人には到底出来ない。けど、それに普通は責任を感じる必要はない。感じる義務もない。けど、自分が中途半端にできが良く、人に影響力をもたらし幸せに導けるという意志が強いなら、それは宗教の始祖のように人々を導く義務に駆られ、責任を感じるかもしれない。

家族単位で、例えば自分の子供の幸せを願ってどーのこーの、勉強をさせるようにしたい、塾にいっぱい通わせるとかそういうのもスケールは違えど同じではないか。

 

すなわち自分の力量を過信して、人を導ける、他人の幸せとはなにかを知っている、影響を及ぼしコントロール可能であると信じてしまうこと。その上で、うまくいっていれば自分の功績であると感じ、失敗すれば相手が道を外れたと憤慨する。致命的な事故が起きて修復不能になったら、自分の責任だと他人の人生を勝手に背負い込んだり、はたまた見向きもしなくなるのかもしれない。

 

そうしたものを執着、他人への依存心、自己の肥大化…そういうことで表すことができるのだと思う。一方で、他人とはコントロールできないもの、自分とはまったく違うもので完全に分かれていると理解できていることで、こうした自らが他人に働きかけることで生じされる幸福・不幸から開放されるのだと思う。

 

要は他人に対して働きかけることで自分の幸せや安定を得ようとするのではなく、ただ自分の自己単体で幸せだったり安定を感じるべきなのだ。自分が他人によって自分の幸せを左右する、されると感じるから人をコントロールしたがるようになる。

 

本題に戻ってみよう。危険地帯に行くことをコントロールすべきか。止めることは正義か。なんていうのか、そもそもそういう行動をしようとしている時点でまあ負けかなという感じ。子供に勉強を強制させるにはどうしたらいいか?という質問に似ている。

答えは背中を見せること。自分が勉強を楽しんでやっていれば、いっしょにやるようになるだろう。もしも安全に過ごすこと、危険を冒さないことでメリットがある、そうした安全に生きることがかっこいいと感じられるのなら、人はそれを真似したくなるだろう。危険地帯で命を落とした人々を真摯に慰霊する姿を見せるとかでもいい。そうした危険に関して学んでいる姿を見せることでもいい。

 

人に影響を与えよう、コントロールしようとするのではなく、人が自然と真似したくなるような、人に自然と慕わ尊敬されるような恥のない人生を送ればよろしいのではないかと思う。背をみせて、相手に委ねればよいのではないか。自分ではどうにもならないことなので、というのが自分の考えだ。

 

まあ完璧な人間じゃないのでたまに感情的になったりうまくいかないことも多いけど、基本的には人にそこまで干渉することはないです。