かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

光とその意味

 

VRChatで簡単に真似できる芸術作品がある。だがVRで真似するだけじゃ価値がない。
誰でも共通認識的に「簡単だ」とわかるからだ。
それに先駆者がいるわけで、二番煎じにもやはり価値がない。

芸術の先駆者には敬意を払うべきだし、現実でできていることだからこそ価値がある。

 

オラファーエリアソンの作品の一つに「Yellow corridor(黄色の廊下)」というものがある。すべてが黄色または黒に染められる部屋だ。すべてであり、例外はない。

どうも黄色の特別な光があり、そこに白色成分がないため他の色が全部グレースケールに変換されてしまうらしい。(あまりちゃんと調べてない)

www.cbc-net.com

人々は日々、様々な色を見ている。だがそれに注意を払うことはない。普通だからだ。
だが、その色は個人の認識でしかない。他人には違う色にも見えることだろう。
角度によっても違う。そもそも色とは人間が認識したものでしかない。

つまり色は人間が観測しない限り存在しない。見ることで存在する。

 

こうした特性について強調するように作品作りがなされている。
黄色の廊下では自分自身の身体も、他人の身体もすべて黄色と黒に変換される。
そこで人々が色とはなにか、色がなくても自分たちがどれほど物事を認識できているのかを考えさせられるというわけだ。

 

この機能を現実で実装するのは非常に容易ではない。光の漏れがないように設計しなきゃならないし、そもそもこの光は門外不出であろう。特許なんかもあるかもしれない。

だが、VRChat、もっと言えばUnityで実装することは非常に簡単だと自分レベルですら理解できる。VRChatで実装する場合はアバターの世界とワールドの世界は別に管理されている。このため、アバターにのみ白黒のフィルターをかけるだけで実装できてしまう。

 

だが、こうしたことをなんの意味もなく実装したところで「おや、なんでアバターが白黒なの?」ってだけで終わる。意味がない。むしろ頑張って改変している人も多いだろうから色を奪うなと怒られるかもしれない。

なんの意味があるのか説明するのもいいが、やはり現実で実装されたものに比べて意味は薄いよな、と感じざるを得ない。そう感じるのは「作れるかどうか」で考えてしまうからか。

 

芸術には文脈がつきものだとは思う。実装しやすい世界の中で意味を持たせることって案外難しいのかと思ってしまう。一方で、簡単だから意味がないわけでもないってことはわかっている。…難しい。