かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

説得は最終手段

 

人の性格や思想は説得では変えられない。言葉による交渉術は暴力よりも先にある。
けど精神的な部分では、他人の言葉による説得は暴力に近いのかもしれない。
説得の前にあるのは、さりげないオススメとか態度を変えることなのかもしれない。

 

戦争とは外交の失敗であるとは名言だと思う。国家間でのやりとりはその通り。
個人についてはどうだろう。たしかに暴力の前に言葉でのやりとりは必要だ。
けど、近年では暴力行為に発展することは…まあ少ないだろう。

 

となれば、言葉よりも先にあるものがあるんじゃないか、なんて考えたわけだ。

 

他人の思想を変えることはできない。自分しか変えられない。
これもまた名言だ。だが、現代ではそうもいかない深刻な問題がある。

Youtubeフェイクニュース、有害な動画たちだ。これらは思想に影響が出る。
他人の思想はいつの間にか他人によって汚染されている。
もっといえばインターネットのサジェストってやつに操作されている。

 

フェイクニュースに染まった人間を変えるのは困難だ。
それは間違っているという証明は受け入れられない。
様々な理由があり、硬直化しているためだ。
ここでその無益さについて語ることはしない。

 

つまり身近な人や知人について、フェイクニュースあれこれの説得は無理だ。
たぶん正常な集まりや読書等、学ぶという行為を強制することが実力行使=暴力の図になるんじゃないだろうか。

となれば、言葉による説得は実力行使よりも前にある。戦争と外交の構図なのか。
いや、現代で肉体的に強制させることはかなり難しい。もう一つ前の段階がある。
言葉による説得が最終手段であり、そこには破滅が待っている。

 

では、その前の行動が必要だ。たぶんそれはインターネットをやめるよう促すとか。
外に遊びに行く時間を増やすことで、ネットの有害情報を断ち切るとか。
ゲームに誘ってプレイ時間を増やして自然と離れられるようにするとか。

やんわり遠ざけるというのが先で、最後に直接対決、というのが個人における現代の戦争と外交に近い関係性なのだと思う。

 

なんでこういうことを書いているか。
それは自分の中に言葉は暴力よりも安全という意識があるからだ。
暴力を振るってないのだから、言葉は相手の受け取り方次第。そういう意識がある。

だが、言葉…もっと言えば説得的な行為というのは、現代では人を傷つけやすい。
自分は正しく、相手は間違っている。そういうことを言うのは、互いに了承を得ていない限り避けるべきなのかもしれない。

 

批判がよくないというわけじゃなくて、単に言葉の強さ、大事さっていうのは現代ではもっと丁寧に扱うべきなんだろうな、ということだ。言葉は暴力よりもマシだが、それでも注意して扱うに越したことはない。