かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

買う理由が値段なら止めておけ、悩む理由が値段なら買えは自分の中で正しいのか

 

自分の経験を見直す

「買う理由が値段なら止めておけ、悩む理由が値段なら買え」この言葉はすごい力を持っていると思う。たしかになあ、と思う部分もあれば高いモノに手が出ないのも人間である。妥協するのも正しい選択だと思う。だが本当に後悔してしまうのはどちらか。

 

今まで購入をためらった中でどういった結果になったかを整理してみたい。スコアカードみたいなものだ。後悔したか、取り返しのつかない結果になったか、満足したか…。そういったものを集計しないときちんと「買う理由が値段なら止めておけ、悩む理由が値段なら買え」が”自分にとって”正しい指標かはわからない。

 

手始めは最近に買ったGoogle Homeだろうか。こちらはminiも選べたのだが、値段で迷った。が、こちらは悩む理由が値段だったので高い方を購入した。結果は「買ってよかった」である。いまではもうないということが考えられない。生活ががらりと変わってしまった。できればもっと早く出会いたかったくらいだ。

 

他には本などを沢山購入しているが、こちらはだいたい迷ったことがない。多少高い本の時には悩んでいるが、結局買ってしまっているから悩んでいる時間のほうが無駄かもしれない。買って後悔したことはないと言っていいだろう。

 

ゲームソフトは買って後悔するのはクソゲーの時だが、最近はプレイ動画を見たり評判を見たり、自分が本当に欲しいのかをしっかり考えられるようになったので失敗は少ない。値段も一定だし、だいたいは良い時間を過ごせて満足している。

 

大盛り無料が該当した

そういえば毎日の食事なんかもこれが当てはまるだろう。よく外食すると「ごはん大盛り無料」がある。これこそまさしく買う理由が値段というわけだ。だいたいは大盛りにすることで後悔している気がする。なんとなく得した気分になるからで失敗する。

 

基本的に後悔するパターンは「無料だから」「安いから」「今しかないから」「ポイントがつく」とかそういった副次的要因によるものな気がした。本来の要因よりも天秤が傾いたと感じることが敗北なのかもしれない。

受験中にやってしまった頭のおかしいこと

 

受験ってこんなに大変だったっけ?

今週のお題「受験」ということで自分の思い出だが…もちろんのこと良い思い出はまるでない。思い返してみると奇行だったなあというものが多い。当時はいっぱいいっぱいで全て受験に捧げていたから気づけなかった類のものだ。

 

受験がいよいよ大詰めになった11月くらいは本当に酷い精神状態だったのを思い出す。寝ようにも寝れず布団の中で英単語を復習しなければならないと思い、英単語を何度も思い浮かべながら寝落ちしなければ”もったいない”と思っていた。

 

受験では無駄がもっとももったいないものだ。とはいえ日常の普通の時間に焦りを感じ、少しでも勉強をしていないと落ち着かなかったのも事実だ。それはもはや脅迫概念というか、悪霊に取りつかれているというか信仰というか…。

 

布団に入って寝ている時は睡眠学習だとかなんとか言って、寝る直前に覚えるのが学習効率がよいと思っていた。だからたくさん詰め込み、夜更かしをして、気絶するかのごとく寝ていたのだがそれでも足りなかった。(意味が分からない)

 

そこで自分は寝ながらリスニングのCDを聴けばいいじゃないかと思いついた。イヤホンを耳にさし、音量を最低にしつつぐっすり寝ついたのだ。病気である。

 

さすがにこれはノイローゼ一歩手前までいったような気がする、というかそもそもこの時点で相当アレだが。ここまで根を詰めてもダメだ、寝たほうがいいというか睡眠は削っちゃダメだという当たり前になんとかたどり着けたのは運がよかった…というべきなのだろうか。ともかく睡眠だけは自分の心のオアシスだった。

 

他の突飛な頭のいかれた行動のひとつは雪が降ったからと言って喜んで室内着のまま外に飛び出し、何故か遠くの公園まで歩いていき(!)、うわごとのように「受かるかなー寒いなー雪だなー…」とベンチに座って死にそうになっていたこと。(ちゃんと雪は払った)。

 

当時は認識していなかったけどよっぽど鬱だったんじゃなかろうか。相当ストレスで心底疲れていたと思う。もう勉強が嫌だという気持ちでいっぱいで、頭の中でずーと神に祈っていた気もする。雪に埋もれて消えたいなー、と自然と想っていた気がする。

 

その後30分くらいでさすがに風邪をひくと思い(遅い)家に戻ったのだけれど、それはもう親に怒られた後で本気で心配されたというかドン引きされた。頭のいかれた可哀想な追い詰められた受験生のありさまである。

 

他にもいろいろあったけれど、だいたいの原因は耐えようがない不安だったと思う。自分の人生にのしかかるはじめての重みは容易に人を押しつぶす。ただ、ずっともがいて変な行動もいっぱいしたけれど全てがまったく無駄ではなかったと思う。

 

受験時の奇行は…自分の精神安定に必要だと本当はわかっていた気がする。自分の不安をとにかく発散したかった、受け止めきれなかった。けれどもそれで周囲に迷惑をかけて、すごく心配されて、そして援助を受けたと思う。だからまあ、間違ってはいたと思うけれど、それなりに悪いことをしたわけでもないと思う。

 

なんだかよくわからないけれども、一番受験と聞いてまっさきに思い起こすのはこんな変な思い出ばっかりだ。思い返すとちょっとした笑い話だと思う。

ビットコインや株に対して自分が思っていること

 

お金で何をしたいのか?

 こちらのツイートを読んでわりとショッキングだったので記事を書こうと思う。自分は株とかFXとかそもそもギャンブルも一切やらない。理由としてはよくある「胴元が一番儲かる」を信じているから。

 

株について有名なのはfacebook本社に絵を描いたアーティストの話だと思う。

7年前にフェイスブック(Facebook)本社に絵を描いて株式上場で152億円分の利益を得たグラフィティアーティスト | コモンポストムービー

彼は報酬を現金か株にするか問われ、株を選んで億万長者になった。ここから自分が思うのは、株は儲かるというよりも会社が成長すれば自然と株も成長するという当たり前のことだ。

 

ここで一番儲かったのは誰なのか?ザッカーバーグなのか、この絵を描いた彼なのか。それは個人に対する報酬であって、一番資金的に嬉しかったのは会社に違いない。我々個人が受け取る量以上の金を会社は集め運用していく。株はそもそも会社の資金集めのために発行されるのだから当然だと思う。

 

株を売ったり買ったりして差額で儲けるのもいい。だが、自分の個人的な気持ちで言えば一番は会社、社会、産業が成長することだ。ベースとなる生活基盤や技術が革新することによって実は我々は裕福になっているはずなのだ。

 

だから1900年代の世界と現代のわれわれの生活は、同じ給料でも幸福度で見れば本当は向上しているはずだ。ただそれに慣れすぎているだけで、本当は緩やかに今も世界は技術革新が進んでいる。

 

だから自分は株式の市場の上がり下がりに一喜一憂するような生活は送ろうとは思わない。それよりも世界を全体的に見た時のゆるやかな技術革新をじっくり享受したい。儲からなくたって自然と世界は幸せを向上させうるんじゃないかと期待しているのだ。

 

そして自分も自分の時間をほんの少しでも文化の発展だとか文明、技術の発展に寄与できたらいいなと思っている。研究者思考と言うと本業の人に怒られそうだが、お金よりも技術のほうが好きだ。個人のお金よりも研究資金や運転資金が大きいほど世の中に貢献できる大きさも変わってくるのだと思う。

 

 

まあそこまで大きいことを言ってもあれだが、要するに平凡に暮らしてても社会が成長してくれれば自然と暮らしも上向くと信じていたいのだ。もちろん日本の先行きは人口の減少などで暗いとは思う。ある程度考えなくてはならないだろうが、基本的に技術はゆるやかに伸びていくのだと思っている。

 

株で稼ぎたい人はお金が欲しいのだろう。そのお金は何に使うのか。何のためにあるのか。全て健康保険や医療費につぎ込む人はいるのだろうか。とりあえず無限に稼げるようになっていないと不安なのか。お金を稼ぐという夢があるからなのだろうか。

 

もしそうでないなら無理して株やギャンブルで稼ごうとしなくてもいいかなと思う。なにより自分は勝ち負けで手が震えてしまうほどの臆病者だ。ゲームでさえそんなありさまだからまず向いていない。オンラインゲームではよく手が震えてしまい情けなく思う。小市民らしく、世界の変化をゆっくりそれなりに楽しむだけで十分だ。

 

 

ゲームでよくある申し訳ないナラティブさ

 

ナラティブって何?

ストーリー不要の時代

GDCの最優秀脚本賞がなくなり最優秀ナラティブ賞に変わったことを受けたCEDEC 2013 カンファレンスの記事。 http://www.4gamer.net/games/999/G999905/20130827028/

2018/01/16 11:17

b.hatena.ne.jp

こちらの記事のブックマークコメントが面白かった。ナラティブという単語は全然知らなかったので集中して読めたと思う。重厚なストーリーとしてメタルギアソリッドなどが挙げられていて、なるほどなあと思った。主人公があまりにも強すぎ+過酷すぎて実体験のように感じられないということ。

 

ナラティブとは自分自身の体験として感じられること、という風に自分は受け取った。それと同時に物語のキャラクターとして行動したくなる、生きたくなるということでもあると思う。

 

上記の記事ではグランドセフトオートをプレイする人々は決して主人公になりたいわけではない、とあった。だが、一部は主人公になり切りたくなる部分もあると思う。完全にナラティブじゃないわけではない。

 

グランドセフトオートはストーリーで悪事を働くようにゲームから求められる。強盗、襲撃、殺人、銀行強盗…。そうしてキャラクター性をプレイヤーは学んでいく。

 

GTAVでナラティブな体験をしたなあと思うのはフランクリンでストーリーでもなんでもないところでひたすらに車の運転を楽しんだことだ。ちゃんと交通法を守り、ラジオを聴きながら運転する。マップの空いているところを埋めに行く。高速道路をだらだらスポーツカーで走る。

 

普段は信号なんか守らないし、ドリフトしまくり、特殊能力を使い、邪魔な車やちょっとでもぶつかった車なんかは爆破したりしていたが、交通ルールを守ってみると急に世界が近くなったような気分になった。その世界で生きる人々と同じ目線というか、リアルさ、自分らしさを感じた。あーそもそも自分なら絶対守るもんなあという。

 

GTAVではそういった本当の自分自身の普通の行動と、主人公たちがストーリー中で求められる数々の悪事へのバランスが面白かったと思う。あえて普通の行動をしてみた後で、GTA流の行動と彼らの悪事への感情をきっちり感じきることでより面白くゲームが遊べたと思う。自分ももしかしたらここまで酷い世界観と設定ならば暴れまわっていたかもという具合に。

 

評判と実際の相違

もう一つ、ナラティブさという意味では微妙なのかわからないが、思いついたのはエースコンバットである。エースコンバットでは主人公の顔はでてこない。性格なども極めて謎だが、スゴウデであるとストーリー中で徐々に敵味方に知れ渡っていく…。

 

エースコンバットでは主人公=プレイヤーなのだが、自分の腕がへたっぴだと本当に申し訳なくなる。僚機のほうがよっぽど頼りがいあるエースだと思うこともしばしば。海につっこんだり壁に激突したり、敵機にぶつかったりおおよそへっぽこプレイヤーである。

 

無線でうちの隊長は頼りになるエースと言われながら、実際のところミサイルから逃げ回るのに必死なだけだと、ゲーム中の理想の隊長像と自分自身がかけ離れていく。ある意味ナラティブさの喪失と言えるかもしれない。

 

こういった主人公はプレイヤーと同一視され、ストーリー中に活躍していくタイプのゲームは腕があまりよくないので申し訳ない…と常々思ってしまう。もう一度エースコンバットを引き合いに出すが、編隊飛行を行う場面があるが、まったくもって適当な飛行しかできず現実なら隊長失格まちがいなし…。

 

ともかくとして、そのゲームの主人公でありたいという気持ち、そのゲームで実際に体験したかのように味わうということ。そういった気持ちにナラティブという言葉が当てはまるのだろう。これから味わうゲームに対してナラティブさを少し考えてみてもいいかもしれない。

300文字書いて寝るチャレンジ

 

ハードルを思い切り下げよう

休日もなんだか疲れが取れず月曜日ということもあって調子があまりよくない。しかしながらブログの更新によいネタも見つからず、だらだらと時間だけが過ぎてしまった。こういう時は何文字書くということを決めてやってみようと思う。

 

この間twitterあたりで流行っていたもので、やる気とはやり始めてから生まれるものだと書かれていた。まさしくその通りだと思う。なので300文字書こうと思ってやり始めればあっという間に埋まっていく。ここでだいだい200文字だから本当にたいしたことはない。

 

twitterでは1ツイート180文字。これを二つ満杯に書けば360文字だから案外情報量は多くないような気もしてくる。さあこれで300文字。案外書く量は少ない。だらだらと書き続けるよりも少なくまとめられたほうがいい場合もある。

 

あれこれネタに悩んで一時間近く何もできなかったが、300文字書くと決めてからわずか7分で400文字を突破してしまった。人間きっかけしだい、書き始めてからのほうが早く終わる。いつまでも書かないままじゃ終わらないというのは真実のようだ。