かやのみ日記帳

読書の感想や思想を毎日書いています!

マストドンはそういえば今、どうなってるんだろう。

 

突然思い出したので

マストドンのことをすっかり忘れていた。最近はマストドンのウワサをあまり聞かなくなったように思う。以前は大賑わいで日本人の新しいもの好きが如実に表れていたと思うけれど、いったん熱が冷めてしまったのだろうか。それとも定住者が増え、安定したからなのだろうか。

 

とりあえず現在マストドンをアクティブに使っている人はどれぐらいいるのだろうか。調べてみると、毎日調査されているブログがあったので引用させていただく。

takulog.info

本日(7/27)時点でのアクティブなユーザのパーセンテージはどうやら1%くらいのようだ。だいたい合計して4000userというところか。著名なインスタンス全体の登録者数が40万userくらい。平日にしてはなかなかな数字というべきだろうか。

 

またマストドン全体のインスタンスの統計(?)のサイトがあるのでそちらの数字も見てみる。Mastodon instances

f:id:kayanomi:20170727194737j:plain

やはりとびぬけて日本勢が多く、海外のインスタンスはそれを超えていない状況だろう。…ちなみに今日初めてmusic.pawoo.netがあることを知った。音楽系専門らしい。

 

マストドンへの期待

上記のリンクで感銘を受けたのが「マストドンは流行る」という記事。マストドンに関してのデータを詳細に集め、現状についての説明をわかりやすく行っている。

takulog.info

 

マストドンは現在は流行ってはいない…と言ってもいいのかもしれないが、十分な知名度を得られたのかもしれない。スタートダッシュを十分にでき、後はじわじわと多言語対応などで伸ばしていく可能性がある。

 

マストドンは決して日本だけではなく、全世界で使われるものだ。だから日本のようにどこかの国で爆発的なヒットが起きた時、再び活気づく可能性もある。またTwitterに大規模な障害や何か不都合が起きた際にはマストドンを使う、という人も多くなるだろう。

 

マストドンは現在も鋭意開発中であり、もっと魅力的な機能開発や連携などによって価値はどんどん増すのかもしれない。企業側がむしろ積極的にマストドンを活用するなどすると互いの価値を高める結果につながる可能性もある。

オンラインゲームにマストドンを組み込む

オンラインゲームなどでユーザー同士のチャット機能、掲示板機能などは普通は独自に実装すると思いますが、今後はマストドンを組み込むという選択肢を考えてもよいと思います。どのようなメリットがあるかというと、

1. 工数削減

2. ゲーム中でなくてもゲーム内の友達とチャットできる

3. ゲーム内の会話が外に拡散し、ユーザーを獲得できる


といったところが考えられます。 

BtoC事業者は即刻マストドンを導入すべき - hedachi blog

 ともかくマストドンは新しいアイディアの素晴らしさと例え注目されていない時期があろうともじわじわと利用者を増やし続けることでSNS基盤としての立ち位置を強めていくのではないだろうか。

 

おわりに

自分も流行っていた当時マストドンについての記事を書いていた。

kayanomi.hatenablog.com

うーん、上の記事を見てみると果てしなく論点がずれている。Twitterがちょうど赤字で買い手もつかない困窮した状況だったからこそマストドンへの注目度は非常に高くなった。これはわかるけれども、肝心のマストドンについての期待感だとか有用性についてはあまり触れていなかった。

 

当時はマストドンの記事が乱立してみな同じようにポストTwitter!とか今やらなきゃ損!みたいな感じで書いていたので自分はちょっと違った口で書きたいなと思って書いた記事だった気がする。ちょっと皮肉っぽく書いてしまったのは少し反省点。

 

現代はSNSがかなり重要な位置を占めてしまった。今後も新しいツールが出て、それによって人々の生活スタイルが変わっていくのかもしれない。それは人々のライフスタイルが変わったから流行ったのではなく、きっと新しいコミュニケーションツールが人々のライフスタイルを変えていくのだと思う。今後もちらちらとマストドンを見ていきたいと思う。

 

 

目標は隠すべきか、それとも…。

 

目標は人に話すと達成できなくなる?

www.ted.com

目標は人に話すと達成される確率が低くなるらしい。それは人に話すことで達成したかのような安心感などを感じてしまうからだとか。

話すことの気持ち良さが 実際にやる可能性を下げてしまうのです 
目標を人に話すことが 実現の可能性を下げることは 心理学の実験で繰り返し示されています 

目標を目指すときには
 
実現のため踏むべき段階があり やるべき苦しい作業があります 本来なら実現するまで満足は得られないはずなのに 
目標を人に話し 認めてもらうと それが一種の― 社会的現実になることに 心理学者は気づきました 

もう実現したかのように 心が錯覚してしまうのです 

これを防ぐ方法として話されているのが、自分に満足を与えないように話すこと。例えば○○という目標が達成できなかったら叱ってほしいとか。そういった方法もありなのかもしれないが、確実に目標を達成したいならば黙っていることが大切なのだろう。

  

おわりに

自分も目標はつい人に話してしまいがちだ。自分の夢を人に語りたくなる気持ちはなかなか抑えられるものじゃない。その夢が大きければ大きいほど、その夢をもっと強く自分に見せたくて人を使ってしまうのかもしれない。若干メルヘンチックに言ってしまえば夢に踊らされてしまっているようなものかもしれない。

 

だから夢は自分の内側でしっかりと飼っておかないといけないのかもしれない。凶暴なのかもしれないし、どこかに行ってしまうかもしれない。場合によっては人を傷つけることだってあるのかもしれない。そう思うとちょっと口には出しずらくなる…のかもしれない。

 

この記事の内容はとある名言っぽく言うならば、「目標なんて言わなくていい」「”目標を達成した”なら言ってもいい」そんな感じだろうか。

 

毎日の自分なりの発見を大切に。

 

例えありきたりでも

人生なんて自分なりの発見をしていくことではないかなんて思う。他人に価値が提供できるというのはとても素晴らしいことだ。それこそ社会貢献というものだと思うのだけれども、人生の中では大部分が個人の個人による記憶の比重が多いと思う。

 

というか個人の思い出に終始してもよいと思うのだ。例えそれが既に発見されていたり、何も意味がなかったとしても本人にとってそれが始めてなら、本人にとってそれは意味がある。そういった体験の積み重ねが人生なんだと信じたい。

 

世の中の為、人類の進歩のためというお題目はカッコいいけれど、個人が個人のための満足に使う時間があってもいいと思うのだ。だから世界的にまったく価値のないようなことでも自分が感動したらきっと素敵な一日でよいはずなのだ。

 

向上心を持って生きるのもいいけれど、身近な自分だけの発見を楽しむことだってとても良いことだと思う。それはきっと心を弾ませる、人生にちょっとした彩を加えるものに違いない。

 

何事も生産性で測られる世の中じゃ面白くない。生産性のある人生というのが本当に楽しいのか。人間自体が非生産的な生き物なのだから最初から矛盾している、なんて当たり前かもしれないけど、人に強く生産性を求める人は多い気がする。

 

けれどもそれは余りに人生を短くしてしまう気がする。人生をより長く自分にとって楽しく生きるのならばきっと誰もが気にも留めないような些細なことを発見して、それを小さく喜ぶことがきっと良いんじゃないか、なんて思っている。

 

おわりに

生産性の反対側にありそうなのが芸術だと勝手に思っている。それは芸術が決して生産性で測れないとかそういうわけでなく、そもそも人間の非合理さとか矛盾を表すものだからだ。人間に感情というものがある以上…ってまあ、こんな話も小説なんかにはありがちなわけで。

 

まあ芸術が心を豊かにするとは、芸術に携わる人々やお題目として掲げられがちだけれども、そもそも毎日の中でささやかにそういった”芸術で表したいもの”を発見できることが素晴らしいんじゃないか。

 

例えそれを表現するすべを持たなくても、発表することがなくても、きっと芸術の心を持った人生というのは豊かになりうるはずだ。そんな風に今日、なんだかいい天気でほのぼのと思ったりした。

 

入力変換の癖から語彙力を導き出せたら面白いなあ。

 

変換の”癖”

自宅のPCの変換はさすがに毎日ブログの記事を1500文字くらい更新しているから自分の思い通りに変換してくれて心地が良い。すんなり変換が通ってくれるとストレスなく記事が書けるのだけど、たまに凝った言葉を使ってしまうと誤変換が起きてしまう。けれど二回三回と使ううちに学習してくれてひと段落する。この繰り返しだ。

 

けれどもたまに違うPCだとかスマートフォンで長文を打つとなると変換が上手くいかず非常にストレスを感じることになる。それはきっと変換の癖というか自分が良く使う語彙をコンピュータが知らないからなのだろう。

 

逆に言えば自宅のPCというのはもしかすると自分の使う語彙の数がわかっているのかもしれない。まっさらなデフォルトの状態から使い込んでよく使う変換だとか使わない変換がわかればきっと語彙力も正確に測れるのかもしれない。

 

選択式テストへの違和感

www.arealme.com

上記のサイトのような日本語の語彙力についてのテストを受けてもいまいちピンとこなかった。なんていうか、選択式の問題のテストでありがちだが答えがあるからこそ思いつくことも多い。選択肢の種類から連想することもできるからだ。

 

これは英語に対する意識で如実にわかると思う。例え学校のテストでいい点が取れても、TOEICのリスニングとリーディングの点数だけでは英語ができるか?本当に語彙があると言えるか。もちろんテストの点数はそれを証明してるかもしれないが、自分自身の実感として不安じゃないだろうか。

 

そうした本当の自分の地力を測るにはわりとお金がかかるテストや講師などを利用するのがポピュラーなのかもしれないが、自分の中で確かな実感ややり遂げたという成果が見えると良いと思う。英語の場合はたまたま見かけた困っている外国人の方をスムーズに案内できたとか。大学院生なら国際学会での発表経験は何よりだろう。

 

日本語の語彙力を測る機会なんてほとんどない

同様に日本語の語彙力とか自信を測るには…。と思うと実は測る場面がない気がする。大人になれば自然と作文とか感想文、小論文の添削なんてなくなってしまう。字の綺麗さなどに頓着しなくなるのと同じように語彙に気を払う人は割と少ない。月に何冊本を読むかで語彙が増えるのだろうか。

 

そう考えてみると…まあブログのススメと言ってはアレだが、毎日記事を書いてみるといいんじゃないかと思う。そしてその際の入力変換について意識するのも面白いかもしれない。

 

最初に書いたことと少し矛盾してしまうけれど、普段使っているPCでもたまに誤変換があったほうがいいのかもしれない。それは新しい語彙というか、自分の使おうとしている言葉が広いからこそ起きるからだ。

 

逆に言えば毎回同じ単語ばかりで変換に苦労しないほうが危険なのだろうか。それとも単に変換の精度がいいだけだろうか。そんなことを思ったりした。

 

おわりに

ちなみに語彙のテストだとかIQのテストではとても平均点な結果に落ち着くことが多い。ちょっと自分にがっかりな気持ちもあるけど、まあ伸びしろがあるということで期待をしておこうか。

 

今回の記事はよく言われる「知っていると使える」は違うという話である。昔はこの言葉にすごくよく反発した。教科書をだらだら見て覚えたと言ってテストに向かう自分を親は散々叱ったものだ。だからこの言葉を使うのはあんまり好きじゃないのだが…。

 

変換についても目上の人から良く叱られて、自動変換ばっかりやると漢字が書けなくなると言われてきた。実際そうかというと、実はブログの記事の下書きに手書きのメモを使ったり、紙の日記も書いたりしているので案外書けなくなるというわけでもなかった。

 

パソコン全盛期とはいえ紙の便利さもまだまだ捨てたものではない。電気が要らないからバッテリー切れで消えないし、紙に書いた内容は即時反映(遅延ゼロ)、単価が安い、どんな絵でも文字でも入れられる…。

 

とまあここまで書いちゃうとパソコン否定派のようだが、そういうわけでもなく入力変換は入力変換でまた”味”があるなあと思うのだ。ここまで面白いシステムは他にないと思う。事実、他の言語圏にはない機能のはずだからだ。(中国語はあるのかな?)

 

この変換というものに深く切り込んだ思想にまだであったことがないので、そういった書籍があればぜひ教えていただきたい。この独特の日本語システムには何か面白い思想がまだまだたくさん眠っていると思うし、この変換の”癖”にはきっと価値があると思うのだ。

 

 

老いと成長の違いについて。

 

制限と自由

ふとメモ書きしていたことなのだが、老いと成長は何が違うんだろうか。子供の頃にできなかったことと現在においてできなくなったこと。この二つの差についてちょっと考えた。

 

子どもの頃できなかったというのは、背が小さくて棚の上に届かないとかそういったもの。老いによるできないことというのは無理に棚の上のものを取ろうとしたときにギクッと何処かから音がして非常に危険だということ。どちらもできないことはできないけど、ちょっと種別が違うはずだ。

 

そんな風に考えて、老いとは制限であり成長とは自由じゃないかと思った。老いた時、人は自分の身に制限が発生したことに気付かない。自分がどの程度までやれるのか把握できなくなるのだ。

 

成長とは制限の反対で自由。だが自由には人間気づきにくいもの。そして与えられた自由なんかだと、本当に自由か試さなきゃわからないということだ。動物園の象のように子供のころから周囲に制限をかけられると成長して自由になっても自分は縛られたままだと思ってしまう。

 

togetter.com

同じように子どもの頃から周囲から呪いをかけられることもあるし、自分自身のことを低く見積もってしまうこともある。そうなると自分が本当に自由であることを自覚できないでいる。自分の自由を試すことなく、いつのまにか自分で制限をかけてしまい、やがて加齢による本当の制限が来てしまうのかもしれない。

 

おわりに

少年老い易く学成り難し、なんて言葉もある。けれどこの言葉のニュアンスは今まで悪い意味のもの、言ってしまえばお説教用の言葉だと思っていた。けれどもふと調べてみると好意的な解釈をしているサイトがあった。

kotowaza-kanyouku.com

「春に、池のほとりの草がゆらぐ、
そんな夢をみていたと思っていたら
もう秋風にふかれて階段に葉っぱが散っているよ。

わかいと思っていてもすぐに年とるなあ、
学問を身につけるのは大変だ、
ちょっとの時間も大事にしないと」


厳密な現代語訳とは
ちょっと違いがあるかもしれませんが
ことわざの意味から考えると
だいたいこんな感じになると思います。


で、一見すると、この詩は
「勉強たいへんだ、むつかしい」
みたいな、しょんぼりとした内容にもとれますが、

よく考えると、時の流れを感じつつ、
「まだまだがんばるぞ」
という解釈もできそうです。

例え老いがあったとしても、学ぶスピードが落ちてしまったとしてもまだまだ頑張ろうと思えること。そしてその老いについて受け入れているような前向きさに励まされる。この言葉は決して後悔などではない。かつてあんなに自由だった、あんなに時間があったはずなのに、今となっては自由もなく時間もない…。なんて嘆いちゃいないのだ。

 

だから少年老い易く学成り難しを説教に使わずに、自分自身の励ましとして切り替えたい。この言葉は若者たちを学業にむりやり追い込むような言葉ではなく、自由な大人としてまだまだがんばるぞ、と使える言葉なのかもしれない。