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かやのみ日記帳

アニメ、ゲームの感想や思想などを書きます!

間違うことを怒られてばかりだった時、数学を学んでいて気づいたこと

勉強

 

間違っちゃダメ教育

学校では間違うことを極端に嫌う。テストでたくさん間違えば、たちまち先生や親から叱られることだろう。算数では途中計算式や掛け算の順序が違っているだけで怒られるし、漢字では書き順が違っていても怒られることもある。音楽では声が大きくないとダメだ。ともかく何か人と違うとか、正しいことができないときは叱られる。こんなことを強烈に何度もやられると、いつの間にか失敗を極度に恐れて隠すようになる。

 

昔小学校でテストを受けていた時は、濃く書いた後中途半端に消して、次にそれなりの濃さで書いてみて2種類の回答を用意するというしょーもない手口を使おうとしたことがある。間違っていれば、いや先生、正しい答えはこちらなのです、という感じで実質答えを2つかけるという画期的な戦法だったが、先生が読んで判断した答えが答えですという回答により抹殺されてしまった。

 

ともかく答えを間違うとか問題に答えられないということを極度に恐れるあまり、何かに挑戦したいだとか時間がかかることは嫌だとか、点数にならないことはしないとか、チャレンジしようという気概がなくなっていく。失敗を恐れてしまう。

 

失敗を恐れるよりも、楽しく問題を解きたいと思える気持ち

そうして中学に入ったころ、受験だとかで忙しいときにふと思ったことがあった。もう受験なんて嫌だ勉強なんてしたくないと本気で思っていた頃である。なんていうか、当たり前なのだが、自分にとって受験に失敗したとしても死にはしないよな…と思った。高校にそこまで思い入れもなかったので自分の中で深く納得できた。私立に行って困るのは親だろうし、自分も志望校に落ちるのは嫌だが死ぬほどではない。それに落ちるなら勉強が足りなかっただけなので別に恨みがましいわけでもない。

 

となれば失敗するのを恐れるのが少し馬鹿馬鹿しくなってきた。所詮テストで人は死なない。そんなに深刻になるものでもないなと思った。人生だってまだまだあるし、テストごときでそもそも人間測れるものかという気持ちにもなった。なんていうかケアレスミスだとか肩肘張って躍起になって机にかじりついていると視野が狭くなって疲れる。

 

間違いたくないなと思って数学の問題を解くよりも、楽しくこの問題を解いてみたいと思っていたほうがはるかに気が楽だと気付いた。そりゃそうなのだが、今まであんだけ学校でテストというもので正解が素晴らしく、不正解は罰せられるかのように教えていたのだからしょうがない。間違っていたとしても、自分なりに面白かっただとか、新しい解き方や考え方を思いついた等のほうがよっぽど幸せだろう。

 

あるいは問題自体がよっぽどつまらないと思ってもいい。たまに試験で罰を与えるために作られたような頭のおかしい問題もある。そうなると自分がいったい何故その問題を解きたいと思えるのかということを考えたほうがいいような気がする。

 

自分が解きたいと思える問題を探す?自分で問題を作って自分で試す

学生が何故その問題を解きたいと思うのか、という動機づけについては誰かに教えてもらった記憶がない。なんだろう、当たり前のように学生は全て問題を解かなければならないと強制されているためか。あまりにも義務になりすぎて、動機などまったく考慮せずに機械的に問題を解く能力を審査しているからなのだろうか。

 

教育というのはそもそも何を解きたいと思っているのか、何が問題なのかを発見することも大切だと思う。その中で自分は何故問題を解きたいと思っているのか、どんな問題を解決したいと思っているのかという自分の中にある心を自分で育てるということも素晴らしく大切なことのように思える。

 

当たり前のように1+1=を解くのではなく、どうして1+1を解きたいと思うのか。次にどんな問題を解きたいと思うのか。+という機能をさらに拡張するような問題と出会いたいのか。そうすると自分で確かめたくなってくる。自分で問題を作って自分で解くようになると面白い。そうすればどういった問題について考えたほうが良いのかということにもつながるかもしれない。自分の問題設定能力に磨きがかかれば、自分で新しく物事を追求したいと思えるのかもしれない。

 

そうやって当たり前に問題を解かない、自分で解きたい問題とは何か、自分がもっと知りたいと思っていることは何かを探していく教育というのはなかなか面白いものになりそうな気もする。

 

夢の中で食べるご飯が人生で一番おいしい可能性。

精神論 お食事

 

今までの人生で一番おいしかったものと言われたら何と答えますか?旅行先で食べた忘れられない味?それとも各家庭の味なのでしょうか。もちろん高級なものはとってもおいしいでしょうし、夏に涼しい部屋でそうめんスイカトマトを食べるというのも風物詩みたいなものでしょう。

 

これよこれ!みたいなド定番な味も毎回、生きててよかったあー!と実感できるかもしれません。生きてて一番うれしい瞬間は干したばかりの暖かいお布団でぐっすり…という人もいるかもしれません。それでは一番ご飯がおいしかった瞬間はどうでしょうか…?

 

私の場合は、かなり特殊でしょうが夢の中で食べたご飯が尋常ではないくらいにおいしかったのです。この世のものとは思えないほどのおいしさでした。いやいや、そんなバカな夢の中でご飯食べるとか食いしん坊すぎる…と思われるかもしれません。ですが特別食いしん坊というわけではなく、疲れたり嫌なことがあったときの対策なのです。

 

眠れない時は明日のごはんを楽しみにする、明日に希望を持つ

何か思い悩むことや嫌なことが頭の中にあるときや逆に楽しみでわくわくして眠れない時、ひつじを数えようとしたり無心になろうとしますがうまくいきません。そんなときにおすすめなのが、おいしいご飯を食べたときの記憶を思い出すことです。お店の雰囲気や注文する前のどこかそわそわとした気持ち。目の前に置かれたときの期待感。食べてみて、ああ、生きてるんだ…体が喜んでるよ…という幸福感を思い出すのです。

 

基本的にご飯を食べるという行為は自分ひとりで容易にできます。なるべく一人で満足げに食べた記憶を思い出すといいでしょう。そうすると人間関係の悩みなどを考えずに、記憶の中のおいしさを思い出すのに必死になることができます。そう、睡眠欲に加えて食欲を刺激するのです!そうなれば、あーおいしいご飯が食べたいなあと考えだすはずです。こうすることで、悩みを食欲で小さくできるかもしれません。

 

おいしいご飯を食べるにはどうすればいいか早く寝て、次の日のおいしい朝ごはんを食べることです。今はゆっくり寝て、明日をほんの少しでも楽しみにして生きるということに気持ちが向いてくるかもしれません。そうしていると昼ご飯を考えたり、夕飯を考えたりするかもしれません。とてもつらい過去や不安な未来を思い出すよりも、自分で選択して好きなものを食べれるご飯のことに意識を逸らすことで、むしろ心を静めるよりもポジティブに入眠へと向かうことができます

 

うまくいけば、おいしい夢が見れる

さて、ここまでご飯のことを思い続けると何が起きるか。なんと運が良ければ夢の中でご飯が食べれます。運が良ければというよりも自分がどれだけご飯に思ったか…と言えるかもしれません。自分の経験ですが、夢でご飯を食べようと執着するのは逆効果で、明日のご飯を楽しみにしていると夢に見れる可能性が高くなる気がします

 

自分の体験談ですが、だいたい前日においしいものを食べると夢で追体験しようとするようです。以前に回転ずしに行ったのですが、その日はマグロがとってもおいしく何皿も食べたという記憶が鮮明過ぎたのでしょう。また食べたいな、味わいたいな、むしろ明日も行っちゃうか…?禁断の二連荘…!とすっごいテンション上がりつつ入眠しました。

 

そして夢の中で気が付くと回転ずしの席に座っていたのです!しかもすでに皿タワーができています。そんなに食べるほうでもないのですが、一度皿タワーを作ってみたいという願望が叶えられたのでしょう。ざっとみても30皿くらいは積みあがってるので、なかなか夢の中の自分は大食漢のようです。

 

目の前には手つかずのお皿が何枚もあって、中にはマグロがあります。夢だとは気づいてはいないのですが、なんていうかお金の心配なんてしない!というはっちゃけた気持ちだったのも良かったと思います。何も気にせずに食べてよいという夢の中の素晴らしい安心感に包まれていました。いつのまにか手に取っていた箸で、そっとマグロを持ち上げ、しょうゆにつけて、口へと運ぶ…。

 

口に入れ、味わった瞬間、今まで食べたマグロの一番とっておきのおいしい瞬間が、自分の味覚を突き抜けて素晴らしく長く続いていくのを感じました。思わずもぐもぐしながらうっまー!と絶叫していたと思います。これ、寝言で聞かれていたら相当幸せな夢を見てるな…と嫉妬されていたことでしょう。自分でいうのもなんですが、人生で最高のお食事の瞬間だったと言っても過言ではありません。

 

食べ物というのは口に入れてから徐々にそのおいしさが変化していきます。それは山形のピークのようにおいしさを迎えたり、ある程度持続したりします。辛さなどは後に残ったりします。そして人間にとって避けられないのは満腹です。満腹になると飽きます。あれだけおいしいものを食べていたのに、人間はそのすべてを味わい尽くすことはできません。ですから人間側のコンディションも常に変化していくのです。体調が悪ければおいしい料理も味がしないと感じてしまうこともあります。ですから、その食べ物の最高の瞬間に自分の体調がドンピシャで最高の瞬間というのは持続しないのです。

 

ところが夢の中の場合、いくら食べても満腹にはなりません。というか食べ物を食べているという感覚とはまた違っていて、最大限おいしかったという記憶を1000%脳が再現してくれているのです!ですから夢の中で食べるご飯というのは気力が続く限り無限のおいしさを誇るのでしょう。ともあれ非常に衝撃的な夢でした。人に殺されたり追いかけられる夢よりも自分は夢の中でおいしいご飯を食べたことのほうが衝撃的でした。自分は夢の中であんなにおいしいご飯が食べれるのなら、現実でおいしいご飯を探す楽しみはどうしたら…という気持ちにもほんの少しなりました。

 

とはいえご飯というのは、食べる前のわくわくや自分なりにグルメレポートしたり、記憶のストックを貯めるなど様々な楽しみ方があります。いっしょに友達と食べるご飯もおいしいですし、自分でご飯を作るというのがストレス解消につながる人もいます。ご飯というのは自分の体調確認に使うことも大切です。例えば同じご飯を食べても今日は味がしないな…というときは風邪や病気(鬱病を含む)、必要栄養素が足りていないなどが考えられます。ですからいくら夢で飯が食えるから…と現実をおろそかにせず、むしろ現実は現実で楽しみましょう。

 

おわりに

夢の中で味わった食事はおそらく人生で一番おいしいと思います。ですが、その夢の味と現実の味を比べて現実ってホントダメだ、もう脳をハックして電子化して肉体を…とするのではなく、自分の舌の変化、満腹度の変化による感覚を認知して楽しむこと。そして現実の毎回同じものには出会えない、食事の一期一会ということを楽しむことが大切なのではないかなと、夢の経験からそう感じ取りました。

 

夢が現実よりも優れているというわけではなく、現実も夢より高尚だというわけでもなく、互いによい体験であることに違いはありません。夢でおいしいご飯を食べるというのは精神的な満足につながり、最高のリフレッシュ、ご褒美になるかもしれません。現実できちんとしたご飯を食べれば元気溌剌ですし、健康管理や精神的健康にもとても重要です。

 

ともかく、人間にとって食事というのは紀元前からあるだろう楽しみの一つです。その食事という楽しみを夢で味わってみるのもよい体験かもしれません。

serial experiments lain(PS版)は自分の人生の価値観を大きく変化させてしまった

ゲーム 精神論
  • ゲームとは言えない、アタッチメントソフトウェアというジャンル
  • プレーヤーが作り出すキャラクター
  • 玲音の存在とは何か?人間とは何か?
  • 記憶とは何か、物語とは何か
  • おわりに

 

serial experiments lain

serial experiments lain

 

serial experiments lainは一部の界隈でカルト的な人気を誇る作品だ。アニメとゲーム版が有名だろう。両方とも視聴したが、衝撃的でダメージが大きかったのは間違いなくゲーム版だと言える。なぜならば自分が操作して、自分が選び、それに対してレスポンスが発生するという仕組みそのものが、どこか中毒性のような侵食されるような要素を含んでいるからである。間違いなく病んでいる最中に触れてはいけない類の危険な香りのするゲームになっている。Amazonではプレミア価格となっており、おそらく中古ゲームショップでも1万円以下で売られていることはまずないだろう。

 

以下からネタバレを含みつつ内容について語りたいと思う。

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Gang Beastsはゲームの面白さを再発見させてくれる。

ゲーム

 

www.youtube.com

Gang Beastsをご存じだろうか?Steamで配信されているゲームなのだが、これが実況者の動画を見てみるとあまりにも面白い。システム的にはスマブラの簡略化版のようなものだ。体力などはなく、むにむにのキャラクターたちがぽこぽこ殴り合い、ひっぱりあったり、なにかものにつかまって必死に抵抗したりするカオスなゲームだ。

 

キャラクタデザインはとてもむにむにしていてかわいい。たぶんぺったん人形のアイディアから来ているのかもしれない。

〔ペッタン人形〕 ペタペタマン(5入)

〔ペッタン人形〕 ペタペタマン(5入)

 

このゲーム、きっと初心者も楽しめるシステムになっている。初心者同士の場合、そもそもうまく操作できないことが笑いにつながる。コミカルなキャラクターが必死になってぺちぺちやってる姿はもどかしい。ステージのギミックが激しい場合はそもそも生き残ることすら難しいので、自滅を笑ったり足を引っ張っていっしょに飛び降りなんて姿もあり、シュールな笑いをさそう。

 

スマブラと比較するとパーセンテージもないし、アイテムも存在しない。格闘ができるとはいえ、なんだか手を前に出して押し出す、ぺちぺちしててホントにダメージが存在するの?というくらいふにゃふにゃだ。このゲームの肝は”掴む”に集約されていることだ。オブジェクトを”掴む”ことで、落ちないようにもがいて耐える、相手の足場をはずすといったアクションにつながる。相手を”掴む”ことで投げ飛ばし、もしくは道連れといったアクションになる。こうなると画面に表示するUIが必要ないのがスゴイ。ただ画面にキャラクターが居て、ただ必死にぺちぺちやるだけのシンプルさだ。

 

スマブラを超えるゲームはそうそう存在しないと思っていた。スマブラのゲームシステムというのは従来の格闘ゲームを超えたアイディアが革命的だった。HPゲージの廃止、落下によるゲームオーバーというマリオのようなゲーム性の組み合わせとパーセンテージによるダメージ蓄積からのふっとびアクションの変化。格闘ゲームの難しいコマンド入力を省いたシンプルさ。どれをとっても一級品だ。こうした優れたアイディアがうまく調和されているからこそビッグタイトルになったに違いない。以来スマブラ風のゲームが出てもそこまでヒットしたような記憶がない。それだけ別なアイディアを導入して調和をとることが難しかったのだろう。だからこそ、スマブラ風の斬新な新しいゲームというのは絶望視していた。

 

ところがGang Beastsを初めて見たときは腹がよじれるほど笑ってしまった。そうか、そうきたかという感じである。まるで低予算の出来の悪いバグ満載のゲームをむしろ強調してきたかのような感じである。Goat Simulatorのバグという要素をまさかの面白さという武器に変えてしまったような感じである。

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ふにゃふにゃのキャラクターにすればモデリングの手間は省けるし、むしろ痛そうに見えないから暴力性が薄れて子供でも楽しめる。そのくせタイトルにGangと入れてむしろ子供っぽい児戯のような乱闘を楽しむ感じがいい。さらにステージギミックの味を大きくすることで運の要素も増やしている。こうなれば強キャラもクソもないだろう。

 

GoatSimulatorをやっている人間にまさかラスボスを倒そうだとかそういう気持ちになることはないだろう。大半の人はGoat Simulatorの挙動や、ヤギって…なんだ?というどうしようもないシュールな事実に笑うことが目的なのだ。そうするとGang Beastsも友人たちといっしょにわいわい楽しくやるのに非常に向いている。勝ち負けにこだわりすぎなくてもいい。というかGangって…え?

 

ただ、ガチでやることもできるのがこのゲームの可能性だ。本気でこのゲームを極めてしまうとあっというまに格闘ゲームに化ける。キャラクターはシュールなのにどこか別なゲームにしか見えない。上記4人のはちゃめちゃに笑っている動画もいいのだが、上級者同士の真剣なバトルはもはやスローでしかわからないぐらいに難しい。

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これもまたスマブラのようにエンジョイしてアイテムを使いまくりたい人や楽しくしたい人と、ガチでやりたい人の棲み分けのようにできる。ここらへんもまたスマブラのような要素を感じてならない。まったく新しい、スマブラよりも手間がかかっていないはずなのに、どこか素晴らしいアイディアを凝縮したようなゲームだ。

疲れたときに見ると本当に笑えるいいゲームだと思う。

 

5歳の子どもにできそうでできないアートはすごく面白い

精神論 読書 小説

 

タイトルから挑戦的な本

以前から現代の芸術作品について理解したいなと思っていたのだが、その欲求そのままの本が並んでいて一目でコレだ!と感じた。タイトルは「5歳の子どもにできそうでできないアート」。表紙からかなり挑戦的な本だとわかる。タイトルからも興味をそそられるだろう。

5歳の子どもにできそうでできないアート: 現代美術(コンテポラリーアート)100の読み解き

5歳の子どもにできそうでできないアート: 現代美術(コンテポラリーアート)100の読み解き

 

表紙から想像できるのは、壁紙を5歳児がひっかけて裂いてしまったというありきたりなものだ。だがこれは芸術作品の一つだ。キャンパスを切り裂くことで絵画という平面世界から認識をずらす、切り裂かれた場所から覗く深淵を表現しているということらしい。絵画の中で画材を使って表現するのではなく、むしろその絵画という概念を打ち破った表現が素晴らしいということなのだろう。

 

こうした一見してわからない絵画作品についての解説が丁寧に並ぶ。なかでも面白かったのは作者自身のために描かれたという作品だ。その作品を作ってから、作者の中での持っていた技法などの概念が全て変化してしまい元には戻れなくなった、というほどの衝撃的なことがあったらしい。

 

つまり作品そのものは結果にすぎず、そこから変化したのは作者自身であり、一般に見る人々はその作品を見て作者の抜け殻のようなものを見るしかないということらしい。どこか作品というものは作者自身を表すように見えてそうではなく、一種の通過点ですらなく、ただそこにかつての抜け殻が置いてあるのを見て思いを馳せるくらいしかできない、作品を読み取る作品ではない…という作品らしい。

 

こうして読んでみると本当に面白いのは、作者たちがいかに苦悩して自分たちの感じているものに対して真摯に打ち込んでいるか、問いかけているかということ。また作者自身の積み上げてきた常識的な技法や、そもそも絵画や芸術とは何かという問いに対して信じられないほどの執念を費やして制作に挑んでいるということだ。

 

最初に手に取ってみようとして表紙に目をやったときの感覚。それは「あー。なるほど、確かに一見したらこりゃわからん。たんに猫がひっかいちゃった傷にしか見えないよね」と思っていた。だが、解説を読んだ後で眼を向けてみれば確かにそこに苦悩が見て取れる気がする。今まで絵画という題材に全精力を費やしてきて、全て出し切ったかのように思えた人間が、ふと深淵を見たくなり、気が付くとキャンパスにナイフを突き立てた…そしてそれが目の前にある。その真意と経緯について思いを馳せると、とてもじゃないが確かに5歳の子供にできないアートであろうと思う。

 

本物と偽物の差は?何がいったい芸術なのか?

2chcopipe.com

ネット界隈ではたびたび現代アートはマジで意味わからんという発言が多い。自分もよくわからなかったし、上記リンクの素人が適当にそれっぽく印象的に描いた絵にうっかり反応してしまい現代アートとはいったい…という面白おかしいコピペになっている。だが裏を返せば理解したいという歩み寄りや、本物と偽物にわかりやすい明確な区別がついてほしいという願望のような気持ちにも見えなくはない。

 

そんな中で正しくその作品を制作するまでに至った背景・使用した画材についての説明なども含めて「なぜ5歳の子どもには作れないのか?」ということを説明しているところがとても高評価だ。タイトルの5歳の子どもにできそうでできない、というのを軸にして説明を組み立てているのは成功だと思う。

 

Amazonには一部ページのプレビューができるからぜひ読んでもらいたいが、ここで「コラージュのある白の上の旗」について引用してみるとそれだけでどんどん想像力が膨らんでいく。

一方、筆跡や彩色が強調された描き方からはメッセージ性が感じられる。なじみ深いものを描いたほかの作品では、ジョーンズはさらなる謎を投げかける。これは旗だろうか?それとも旗の写しだろうか?これは芸術作品だろうか?それは重要なことなのだろうか?

作品の5歳児に描けないとされる根拠の説明の文章も非常に面白い。

だがこの作品は、観る者に謎を投げかける。美的な価値というのは何か特定の物にもともと備わっているものなのか、それとも芸術家による創造の過程を通して初めて授けられるものなのかと問いかけているのだ。

この作品は単なる星条旗が上半分に描かれているだけだ。さて、この作品は誰にでも描けるのかもしれない。では何が芸術としてこの作品を扱わせるのか星条旗自体に意味があるからか?芸術という分野に政治的な色を持つ星条旗を持ってきたことが芸術の新規性なのか?それともタッチが荒く見る者に何かを感じさせるから芸術なのか?それともこれを芸術家が描いたから芸術たりうるのか。そういったことを問いかけてくるということらしい。

 

これはあまりにも芸術家自身の首すら絞めるような作品に見えてくる。芸術に価値があるのか、いったい何なのかを散々苦悩しながら作り上げたのかもしれない。かなりメタ的な作品のように思う。自分たちがいったい何を芸術作品として創っているのか、というのを試すかのように創っていく姿はいささか破滅的にすら思えてくる。もしくは人間や社会一般の芸術という観念に対して真っ向から挑戦していくような荒々しさすら感じるものだ。

 

絵画の平面という世界に対しての認識に挑もうとする精神や日常や人間の認識に対して疑問を投げかけたり自らを否定するような作品に挑もうとするその姿勢は表現者として誰にでもできるわけではないということが作品への価値へと繋がるのかもしれない。

 

文章や言葉は全て他人のものなのか?

cakes.mu

そして5歳の子どもにできそうでできないアートから感じること、そして上記の記事の一文からもやっとしたことを書きだす。上記記事の一番もやっと来た文章を引用する。

深澤 「自分の頭で考えて、自分の言葉で物を言う」って一見いいことを言ってるようだけど、そもそも自分の頭とか言葉って幻想ですよね。でもこれを言うと学生や若いライターはショックを受けるんです、「自分の言葉で書きなさいって言われました!」って。でもそれ自体が他人の言葉ですからね(笑)。
 けっきょくはたくさんのテキスト—しかも共感できずわかりにくい内容のものを—摂取して、他人の頭と他人の言葉をたくさん知ることが一番大事です。でもそう言うと、くだらない教養主義だと思われていまう。 

この文章の「自分の言葉なんてないんだよ」という表現が非常に好きになれない。世の中にはすべて使い古された考えやアイディアばかりで現代は再発明や再発見をうまくすることが大切だよと諭しているように聞こえる。もちろんそういったこともあるだろう。中二病チックに言えばすべての物語は聖書や神話で出尽くしたというところか。

 

確かに5歳児が何も知らずに芸術作品を生み出せるのか?という問いについては確かに他人の頭、言葉をたくさん知ることが大切だろう。では、何かを創作する側の人間が「自分の頭や言葉が幻想だ」と発言するのは正しいのか?そこが納得できない。創作する側が挑戦しなくてどうするんだ!と感じる。なんだかいじけてるようにすら見えてしまう。どうせ昔の人も全部やってるし、今更新しいものなんて全部出尽くしましたよ、今後は昔のアイディアの水平展開、ブルーオーシャン万歳みたいな感じである。

 

方や芸術分野の挑戦を見るとその常識や考えに真っ向から必死になって勝負を挑んでいるように見える。哲学の分野でも同じだ。今もなお進んでいるのかわからないが、それでも何かを求めて表現することだけは止めないように見える。他人の言葉ばかりを利用しているだけでは、進歩するのなんて無駄という停滞に見えてしまう。例えありふれたものを使ったのだとしても、それをもって更に何かを問いかけ続けることだってできるのではないかと芸術作品はそう突きつけるように見えてくる。

 

他人の頭や言葉を学ぶのは別にいい。それを学ぶのは武器を持つためだ。その武器を使って何かを探しに行くというのは、その人自身にしかできないことだ。武器は別にありきたりでもいいが、そこから何か新しいものを探そうとする行為こそがもっとも大事なんじゃないかと思う。そしてその行為というのは他人の頭通りに行動することではない。自分の頭で自分の思うままに探すことだ。それは幻想ではないと言いたい。

 

もうすべて出尽くしてしまったのか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

音楽についてもメロディーは出尽くしてしまったのではないかという危惧もあるらしい。だが、それでも音は無限にあるともいうがそれだけではない。やはり芸術である以上日々何か新しい表現はないか探して、それを試すことが続いている。まだまだ新しい音楽は生まれていく。

 

どこかで読んだが、一度本当に出尽くしたと誰もが思った時に民族音楽が再発見されることになった。それは西洋の音楽よりもずっと音の数が少ないにもかかわらず、とても情緒的で豊かなメロディーを持っていたことに驚かれた。そうしてまた新しい表現が次々と爆発するように増えていった…といった記事があった。

 

文章というのは日本人ならば義務教育によって誰にでも書けるのだと思う。そして似たような文章がたくさん並び、ずいぶん先進的な教育が施され大学全入時代とも言われている。教育が高度化して広く有用なアイディアや過去の記録を個人個人が理解できるようになった。そして今や有用な発言や作品、アイディアは瞬く間にSNSによって全世界にすら一瞬で拡散されてしまう時代だ。そうなれば自分の思い付きは全世界、全歴史上の誰かが考えたことと似ていたり、まったく同じではないかという恐怖に駆られるのも無理はない。

 

アニメやゲーム、ラノベだって展開が似てればテンプレ、キャラの特徴が似てればパクリとも言われるぐらい、どんどん作品が増えている。そうなると新しい表現なんてどこにもないんじゃないか、全て出尽くしたり過去の作品のパロディや部分引用をするしかないんじゃないかと思ってしまうのだろう。

 

だが、そんなときに現代芸術の盛んな取り組みがもしかすると救いに感じられるのかもしれない。5歳児にも真似できそうな、一見だれにでもわかるオリジナリティのない作品のように見えて、本質を理解した時にとてつもない衝撃を伴って一気に自分の中に取り込まれる感覚というのは誰にでも真似できるものではない。もしかすると現代の芸術というのは、そういった現代人にとって大事な、個人が受ける衝撃、感動という感覚を改めて教えてくれるのかもしれない。