かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

間接照明の良し悪し。光はちゃんと確保しましょう。

 

間接照明へのあこがれ

間接照明って聞くとなんだかおしゃれなモノだと思う。自分もそんな感じだったけど、寝る前に照明を暗くして過ごすことでよく眠れるだとか夜っぽい雰囲気を楽しめると聞いて導入した。

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間接照明はぽわっとまるで障子で遮った火の灯りのように感じられて心が落ち着くような気がする。なんだか柔らかさや温かみを自然と感じさせるもので、たしかにこの近くで読書をするとたいへんロマンチックというか、ともかくおだやかな夜のひと時を過ごせる気がする。

 

ベッドサイドにランプをつけて読むのもそれはそれで乙なものだと思うが、部屋全体に広がるといろんなことをすることができるので便利だ。例えばPCもいじることができるし、ちょっとした雑用もこなすことができる。

 

間接照明に頼りすぎてはダメ

間接照明を導入した時にはとっても嬉しくて家に帰ると間接照明だけで暮らしていたものだ。夜になると天井の白っぽいあかりではなく、ほんわかとしたちょっぴり暗めの照明で穏やかに過ごす。そんなことを夢見ていたのだが…。逆にだんだんと強い光が苦手になってきた気もした。

 

結論から言ってしまうと、間接照明だけで何時間も過ごそうとするのは大変よろしくないと思う。寝る1時間くらいなら構わないと思うけれどずっとそれで過ごすには不適であると思う。…まあそんなにやる人は少ないと思うが…。

 

何が悪いのかと言えばやっぱり光量が足りないのである。当然目にはあまりよろしくないかもしれないし、なんだか元気がちょっぴりなくなる気もする。ただ元気がないときには非常にうってつけである…が、余計に元気が出なくなるかもしれない。

 

うつ病も日光に当たると結構よくなるとか都市伝説もあるぐらいだし、明かりは人間の精神活動に大切である。つまり夜に活動をするならば十分な光量を確保したほうがいい。例えばブログ記事を書くときなんかはもちろんである。本を読むときも、寝る前に寝つきを良くしたいから、という理由があるならば間接照明下でいいと思うが普段から常用してもあまり…という感じだ。

 

あんまり光と人間の精神的元気なんて関連性がないものと自分でも思っていたけれど、ずっとそうして過ごしていると結構わかってくるものだと思う。たまたま自分がだめな体質だったかもしれないが…。

 

ともかく光はちゃんと確保したほうがおそらくは健康に良いだろうと思う。すごく当たり前の結論だが、そういうことだ。間接照明も用法容量を良く守ってお使いいただいたほうがよいだろう。ロマンチックはたまにだから良いものである。

 

 

 

 

 

 

 

秋の夜長に読みたい本

 

その質問に答えられるか

今週のお題は「読書の秋」ということで、秋の夜長に読みたい本についてらしい。夜長とは文字通り夜が長く感じられるということだが、たしかに最近は日が落ちるのが早くなって夜の時間が多い気もする。そろそろ「読書の秋」モードになってもいいころかもしれない。

 

まずは自分が今後ゆっくりと読みたい本について書いてみようと思う。それは「仕事は楽しいかね?」だ。

仕事は楽しいかね? (きこ書房)

仕事は楽しいかね? (きこ書房)

 

 実は一度すべて読み通しているのだけれど、なかなか自分の中に染みてこない。とても大切なことが何度も書かれているけれど、それを何度も読んで実践しないといけないなと思う。日々、いろんな失敗とか経験をするたびにもう一度読むことで勉強になる気がする。

 

近頃いろんな悩み事が急に増えてしまって困っていたので、ふと以前に買った本を読み返していた。そんな中でこの本に書かれていることは”試してみてもいいかもしれない”と思ったのだ。

 

この本は物語仕立てになっていて、ある日吹雪で空港に閉じ込められてしまったしがないサラリーマンと老人の話である。なんとなく薄暗く立ち込める鬱屈とした空気を老人・マックスがとんでもないほどの熱量でサラリーマンを炊きつける、そんなストーリーだ。

 

しかしこの本のタイトルには驚かされる。仕事は楽しいかね?と印字されたシャツでも着て街を歩けばきっとみな顔をゆがめてしまうに違いない。今もあるかわからないけど広告で「はたらいて、笑おう」というキャッチフレーズの物が出ていたが、あちらは個人的にはあまり好ましくないように思った。

togetter.com

キャッチフレーズから斜に構えて読むなら、はたらいてなぜ笑わなければならないのか、はたらかなければ笑うなということなのかなんて思ってしまったりする。それは日本人の働かざる者食うべからずな精神なんだろう。

 

そんな精神を持っているとふとした時に「仕事は楽しいかね?」なんて聞かれても答えられなくなる。仕事ってなんだろうか。たまにそんなことを考えて、自分なりに答えを探したくなるとこういう本が買いたくなるわけだ。

 

仕事に限ったものではない

仕事は楽しいかね?では実は仕事に限った話をしているのではないと思う。原題は THE MAX STRATEGYなわけで、特別仕事の戦略についてというわけでもないと思うからだ。老人・マックスが説いているのは極めてシンプルで本書の最初にも出てくるのだが「なんでも試そう」である。

 

この「なんでも試そう」は極めてシンプルで極めて難しいことも説明されている。人間はすぐに安定を求めて、そのうえでうまくいけば習慣に変化する。そうなれば変化は難しくなり、新しく試すことに及び腰になる。

 

毎日の習慣として新しいことを試そうとすることをマックスは薦めている。だからこれは何も仕事に限った話ではない。毎日をどのように過ごすかはだいたいは習慣になったことに基づく。だいたいは手を抜いて決まりきった対応などに終始しがちだ。毎日はあまり変化がないのが普通なのだろう。

 

けれども仕事は楽しいかね?という質問に自分で自信をもって言いたいのならば”毎日試すこと”が必要なのだろう。この本が売れているのはきっとタイトルのおかげでもあると思うが、それ以上に変化が苦手な日本人にとって苦い薬になっているからかもしれない。

 

おわりに

私信ですが最近ちょっと寒くなったせいかお腹を壊しやすくなってしまいました。食欲の秋ということで栗を大量に食べたせいかもしれません。そろそろあったかいお茶が良い加減の季節なのかもしれませんね…。

 

もともとあまり胃腸が強いほうではないので少しずつお腹をいたわるような生活に切り替えていかないとなあ…という感じです。みなさまも体調にはお気を付けください。

 

 

 

人の読点から気持ちを読む

 

読点は視覚的なサポートではないか

文章を書いていると読点をどの程度打てばいいのかは間違いなく悩む。どうすれば読みやすいのか、どういったルールがあるのか。そういったものを一度は考えてしまうはずだ。自分でもまだわかってはいないけれど、ある程度ルールは決めている。

 

自分が読点を打ちたくなるのは、ひらがなが長く続いた時だ。←の文章では「は」と「ひ」が続いてしまっているので読みづらい。そのため読点を打ってアシストしている感じだ。できるかぎり漢字をときおり挟むことで、ある程度読点がなくても区切りが付くと思っている。

 

とはいえ漢字ばかりでも読みづらくなってしまうので適度にしなければならない。まだまだ自分でも未熟だと思っている。特に漢字にしなくても良いところ、悪いところの区別がついてないので…。←は「特に」は「とくに」でもよいかもしれないし、「良い」は「よい」かもしれない。

 

自分にとっての読点の役目はあくまで読む人のアシストでしかない。だいたいは視覚効果なんじゃないかと思っている。するっと読めればあまり読点を使わなくてもよいと思っている。なぜなら人間はだいたいの文章を補完して読んでいるからだ。これはハーバード大の研究結果で一度は目にしているかもしれない。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。

この文書は最初と最後があっていれば人間が自動的に単語を補完できることを示している。だから誤字脱字はなかなか見つけづらいのかもしれない。それはともかく、人間にはもう一つ補完の能力があると思う。それは一般化された慣用句の自動補完だ。

 

上の文章で「だから誤字脱字はなかなか見つけづらいのかもしれない」と書いたけれど、おそらく多くの人が実際に読んだのは  ”…のかも” くらいだと思う。そこから先につながるのは ”かもしれない” で決まるからだ。

 

もしくは文脈的にわかりきっていたかもしれない。 ~を示す という文章の次に だから とくれば、前の文章から導かれるものを書いているのは自明だ。そんな風に人間は高度に類推して実際に読むのをサボっている。

 

こういった考えから読点を打ちすぎるのは逆に人間の高度なサボり能力を阻害してしまうのではないかと思っている。↑の文章はさすがに読点がないとキツイかもしれないが…。

 

読点の魔の力

けれども、自分の意図を正確に伝えようと大量の読点を使う人がたまにいると思う。例えばこんな感じだ。

 

自分にとって、本当に、伝えたい気持ちを伝えるには、相手が理解してくれると受け身になるのではなく、自分がここだ、と思うことを読点で、まるで声を詰まらせて、ぐっと相手に押し付けるように、使うのだ。

 

まあこれもまた正しい使いかたなのかもしれないけど、ある意味で書く人の気持ちがすごく出ているなと自分は感じる。おそらく書いてる最中に力が入っているんじゃないだろうか。人間熱くなると声がだんだん大きくなったり身振り手振りが多くなるように、つい読点で区切りたくなるのかもしれない。

 

上記の文章を本当に伝えたかったこととして太字にするならこんな感じだろう。

 

自分にとって本当に伝えたい気持ちを伝えるには、相手が理解してくれると受け身になるのではなく、自分がここだと思うことを読点でまるで声を詰まらせてぐっと相手に押し付けるように使うのだ。

 

あんまり詳しくないからわからないけど形容詞だとか修飾を読点で頑張ろうとしているのかもしれない。とはいえ太字にすることで読点の数は減ると思う。そういった太字が使えないメールだとか、そもそも太字を使うと強くなりそうだけど意図はしっかり伝えたい時につい読点に頼ってしまうんじゃないだろうか。

 

逆に言えば読点をたくさん使う人の文章からは本当に伝えたかったことが見てわかるので良いかもしれない。ただしビジネス的な場面で読点が多いと少し失礼に値するかもしれない。なぜなら読み手はあまり信用ならないと伝えてしまっているかもしれないからだ。そこまでは言い過ぎかもしれないけれども…。

 

おわりに

読点が多い文章は個人的には嫌いではない。ただそこから伝わる印象は大切にしたほうが良いのではないだろうか。自分も昔はたくさん打っていた。その時に感じていたのは漠然とした読者への不安である。読者は自分が書いた文章をちゃんと理解して読んでくれるのか不安だったのだ。

 

読点が多い文章から自分が受ける印象は几帳面、まじめ、不安、神経質。こんな感じだ。自分の書いた文章が間違って伝わらないように精一杯配慮しているんだろうなと思う。そのわりに誤字脱字とかが多いとがっかりするのだが。まあ個人が書いた文章で書類でもなんでもないので別に気にはしない。

 

ただ文章を読んでその性質をみて人の性格なんかを想像するのが好きなのだ。ある意味探偵の真似事みたいなものである。几帳面で意味を間違えられたくないし、自分の気持ちをしっかり伝えたいから読点が増える。しかし自発的に書こうとした文章じゃないのか、ところどころ文章のつなぎ目がおかしいなど。

 

ブログを書いていてほとんど毎日文章を書いているからこそ、ほかの人が書いた文章からどんな気持ちで書いたのかを想像するのが楽しいのだ。そしてそこから何か自分に役立てられないか、もしくは自分の文章と比べて反省したり改善したりするものを見つけようとしている。

おばあちゃんと葬式とカレーと

 

はじめての葬式とカレーと

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」ということで、おばあちゃんの葬式の話をしようと思う。自分が小学生ごろ、おばあちゃんの葬式があった。以前から会ってはいたけれどベッドでほとんどの時間を過ごしていて、あまり面識があったとはいいがたかった。なんとなくこういう人、という漠然とした理解だったけれどおばあちゃんは大層かわいがってくれた。出会うたびに何かを施そうとしてくれるのだけれど自分は戸惑ってばかりだった。

 

そんなおばあちゃんの葬式だったわけだが、周囲の人々はどこか落ち込みつつも明るさと少し快活さを持っていた。葬式の雰囲気は故人が生前どんな人だったかを表すのかもしれない。みな、悲しみもありながらそれでも笑顔だった。

 

葬式で子供である自分にとってよかったところ(葬式に良いも悪いもないが…)は大変現金だけど”ごはん”である。夕食は人生でもっともおいしかったカレーと巡り会ってしまった。参列者の方々が夕食を協力して作っていたらしいのだが、特にカレーはあっという間になくなるほど素晴らしい出来だった。

 

小学生の自分は人生で初めてカレーを3杯ほどおかわりして両親に「不謹慎だ」と怒られた覚えがある。けれど周囲はそんな自分を「いっぱい食べて育て」と大いに笑ってくれたのは少し照れた。4杯目も食べたかったが両親の睨みに負け結局は空になってしまうのを待つほかなかった。

 

そんな悲しさのかけらもない自分は周囲からすごく浮いてしまっていた。人が死んだということを知らなかったのである。誰が死んだのかすら認識があまりできていなかった気がする。今、大人だからわかるけれど”二度と会えない・話せない”という悲しみを想像ができなかった。

 

おばあちゃんのことも少しは覚えているけれど、でも特徴だったことは思い出せない。名前だって実は知らなかったのだ。それはすごく申し訳ないことをしたなと大人の今ではすごく思う。けれど小学生なんてそんなものだった。

 

葬式の空気にも合わず、仕事もできない自分は忙しい両親から邪魔者扱いされるのも当然で、どこか大人のいない場所を見つけるためにあちこちうろうろしていた。座布団の間に挟まれてみたり、隠れてみたりしたけれどじっとしていろと怒られたり散々だった。

 

葬式はあっけなく終わり、季節も廻って大人になったころに両親から様々な話を聞いた。そんな中で今でも残っているものがあった。おばあちゃんは編み物が好きだったようでその制作方法は母へと伝授されたようだった。ある意味でそれはずっと生きてるってことで、なんだか故人を偲ぶような気持になる。それよりもおばあちゃんもうれしいだろうなあなんて思ったりした。そうやって脈々と受け継がれていくものがあるというのは良いものだと思う。

 

 

初めてイヤホンをつけた日の思い出

 

イヤホン禁止令

初めてイヤホンをつけたのは高校の受験の時である。それまではイヤホンは聴力を落とすから禁止というのが我が家の掟であった。そのため音楽を聴くという習慣だとかCDを買うなんてこともあまりなかった。一人で音楽を楽しむという環境がなかったためである。

 

音楽を単体で聴くというよりはテレビ番組だとかゲームなど音楽単体ではなくあくまで付属品としてが多かった。それに自分の部屋でのプレイではなかった。そんなわけだけれど、高校になり大学受験がいざ控えるとなると特別集中が必要だからという理由でイヤホンをつけて勉強をすることにした。

 

小中学校までは親の教育は厳しかったのだけれど、高校になってから反旗を翻したこともあり自由がある程度は得られた。けれどもイヤホンをするなみたいな過去の禁止事項をなんとなく守らなければいけないような罪悪感にとらわれていた。だから受験勉強とは言えイヤホンをつけるのはちょっといけないことをしているような気持ちだった。

 

音の豊かな広がり

それから受験勉強ということで恐る恐るなれないイヤホンをつけることにした、がまず着け方がわからない。これであってるのか、かなり奥まで入れなきゃいけないのか。なんだか耳がむずむずするしひょっとしてサイズがあってない?など不安にも駆られてしまった。

 

一時期は学校で誰かにイヤホンの付け方でも聞こうか本当に悩んだほどである。耳に合っていないのかなんなのかすごく筋肉が(?)疲れてしまっていたのを覚えている。とはいえ装着はなんとか落ち着いて音楽を再生してみて本当にびっくりした!

 

それまでイヤホンで聞く音楽というのは近場で大音量で、それでいて周囲への配慮のための物と思っていた。別に周囲へ配慮の必要がなければイヤホンは必要ないと考えていたけれど、そうじゃないことをはっきりと理解した。音が自分の体の中心でぶつかって共鳴しているような感覚を味わえるのだ。

 

当たり前のことかもしれないけれど当時の自分は全てが新鮮な発見で満ちていた!イヤホンで聴く音楽とスピーカーで聴く音楽の違いは何か。耳までの距離だけではなく、左耳、右耳に違う音声が流れていることを発見し、それらが脳で合成される。そのせいで立体感を得られるのだ。

 

これは現代で持て囃されてるVRとも同じ原理だろう。左目と右目に違う映像を流し、脳で合成することで平面から立体に知覚するようになる。なんていうか、二つの情報が独立していることで新しい情報が得られるんじゃないかとか…自分ではっきりとした言葉にできないながらもとにかく感動していた。

 

音のいろんな楽しみ

それ以来音楽には様々な楽しみ方があると知った。ライブ会場なんかで聴くものは観客の歓声、熱気、それに加えそもそもの巨大な空気の振動や視覚の効果だって含まれているだろう。この空気の振動は身体を大きく振るわせてくる。それもまた音楽の一部なのだろう。

 

また自分で楽器を演奏する楽しみも同じだ。自分で歌うこともまた変わってくる。その歌に籠められた言葉だとか、歌う難しさなどを実感したり聴いてる時には見つけられなかった音やリズムを発見した時はもっとその曲が好きになる。

 

今でもイヤホンで聞くときはほとんど一番低いレベルで音楽を静かに再生していることが多い。大きめの音で聴くとそれはそれで体を震わせているような、精神が高揚するような気持ちにもなれるけれど、自分はじっくり聴くのが好みに合っている。

 

おわりに

ついこの間イヤホンが壊れてしまって新しいのを買い求めた時に店員さんに聞いてみると音量の大きさだとか低音の…みたいなところを紹介されてしまいちんぷんかんぷんだった。音量をそこまで大きくすることもないし、低音の違いが分かるほど繊細な耳でもなかったので適当に安いものを買って帰ってしまった。

 

とはいえ音量を大きくして音が漏れるほどなのに全然平気そうな人などがたまにいるけれど、なんとなく辛いのが得意な人に似ているなあと思う。辛さに強い舌を持っていて刺激を求めるように、耳が強くてロックでヘビーな音楽を求めている人もいるんだろうなと思う。たしかに音量が大きいのにバラードをしっとりと聞いている人は珍しいんじゃないだろうか。そんなことないのか…?

 

FPSでは周囲を警戒するためにヘッドホンやイヤホンが必須だと聞いたことがある。後ろから足音がするなどといった方位などを特定するために利用するのだそうだ。人間の感覚器を最大限に利用した遊びで本当にすごいと思う。VRなんかだと視覚に加え聴覚まで3Dとすることで没入感を増しているのだと思う。人間の感覚を広げるような体験というのはいつでも新鮮で、思い出に残るものだ。そうしたものをずっと楽しみに生きていきたい。