かやのみ日記帳

読書の感想や思想を毎日書いています!

道徳で教えてもらった、”今”というのは過去の積み重ねなんだよという教え

 

子どもにとっては”今”は現在だけ

ある日の道徳の授業は少しいつもとは違っていて、なにやら教訓めいたことを教えてくれた。どういう形式だったのかは覚えていないものの、言っていたことは思い出せる。それは、”今”というのは過去の積み重ねでできているんだよ、とだった。

 

ただ先生はこのことを大人になってからすごく実感するようになるよ、だから子供のうちに覚えておいていつか思い出してほしいと言っていた。先生からの贈り物ともいえるのかもしれない。しかし子供の頃はめちゃくちゃ不満だった。素直に受け入れられない時期というのもあったが、そもそも子供にとって”今”というのは”今”でしかない。過去の割合なんてとっても小さい。

 

自分が子供だった頃というのは、確かにいろいろ考えていた気がする。周囲の大人たちが思うよりもずっといっぱい悩んでいた。子供だからと思われるのが嫌だったから必死になって考え込んで唸っていたというのもあるのかもしれない。そうやって考え込んでいると素直に大人の言うことを聞きたくなくなる。自分の中で確かめて、疑って、斜に構えるのが癖になっていく。こういった大人からの上から目線アドバイスが心底嫌いだった。

 

”今”だから思うこと

子供の心ではわからなかったけど、今なら少し分析できる。こういったアドバイスは子供では検証できない。自分の人生経験が少ないので、なかなか共感することができない。また、それが広く知られているような教訓でも自分に当てはまるかどうかは別ということ。そしてその教訓が都合のいい解釈である可能性やたった一人の人生訓だと役に立たないということだ。大人はこういう論理を使って子どもをよく丸め込むから、うっかり受け入れないように警戒していた覚えがある。

 

ともかくこの道徳の教えを大人になって確かめてみたら全然合ってなかった…と言ってやるために覚えていた。子どもっぽい意地というか復讐?みたいなものだ。どうせこんな偉そうな考え方なんて役に立たないと思っていた。こんな薄っぺらい言葉に踊らされてる大人ってなんて馬鹿なんだろうとずっと思っていた。

 

…そんな風に思っているうちが子供だったんだなあと思えるのが大人の悲しいところだ。もうちょっと子供でいたかった。もう少し無邪気に歯向かう元気が欲しかったところだが、今はもうくたびれた大人だ。多少人生経験を積んで丸くなってしまった身としては、この言葉が自分の胸に突き刺さる。

 

”今”は過去の積み重ね

子どもから大人へと成長する過程で、たくさんの出会いと別れ、選択と決断に迫られる。そうしていると、ふとあの時ああしていれば…という切ない気持ちに駆られることがある。あの時、受験する高校が変わっていたら。あの時、友達と喧嘩をしなかったら。あの時、あの選択をしなければ…。たくさん選択すればするほど、たくさんのありえただろう可能性が増えていってしまう。その時今の自分って本当に正しい選択ができたのか?と自分に問いかけたくなってしまう。今の自分は正しいのだろうか。

 

そんなとき、”今”というのは過去の積み重ねなんだ、という言葉の意味をよく考える。過去というのは自分が決断したという結果でしかない。いつのまにか決断してしまっている。選ばないということや迷うということすら決断として扱われてしまう。そうした、”その時”自分が選んできた結果が”今”現在そのものであるということ。

 

今の自分というのは今でしかなくて、過去を想うという選択も”今”自分がしていること。あの時ああしていれば…と考えるのは、もしかすると”今”だからかもしれない。もしも違った未来を選んでいたら”あの時ああしていたら”と考えることもないかもしれない。

 

コンピュータに対する奇妙な自信の理由。

 

たいしたことない機械

母親にパソコンの使い方を教えたことがあるのだけれど、どうしてそんなにスイスイ覚えられるのか聞かれたことがある。なぜそこまでパソコンを使いこなせるのかと。教えたことと言ってもちっちゃい「っ」の打ち方とかUSBメモリへのコピーの仕方と言ったすごく初歩的なことだ。

 

自分が母親に言ったことは「パソコンなんてたいしたことない」ということである。逆に言えば「パソコンとはおそろしいもの」とか「うっかりいじると壊れる高級品」と思っていると飲み込めないんじゃないかと思う。

 

自分にとって「たいしたことない」とは「壊れても(…エラーが起きてもという意味で)別に問題ない」ということである。何かあっても電源を入れなおせばいいやというおおらかさだ。打ち間違えても、何かを間違って操作してもある程度取り戻しが効くと信じているからあまり迷わないで済む。それがパソコンに対する慣れだと思う。

 

というか母親などはパソコンのことを「自分よりも頭のいい機械」だと思ってしまっている。だが、少しパソコンをやってみればわかる通りパソコンなんて人間よりよっぽどへっぽこである。ちょっとでも間違えると動いてくれないほど融通の利かない石頭である。

 

 

ただ、パソコンというのは自然が作ったものではなく人間が人間の為に作った機械であるということがポイントだと思う。たかが人間が作った市販品なのだから人間にわかるはずだと思って取り組む。逆にわかりづらいなーと思えばそれは作った人間の失敗だ。

 

パソコンに限らないと思うが、人間が作ったもの、デザインしたものは作った側の立場を想像できるようになるとスイスイ進められるようになると思う。きっと作った人はなんらかのヒントをここらへんに出してくれてるに違いないとか。そういった勘所だ。最初の恐怖や畏怖を乗り越えて、作った人の気持ちになれると自分のものにできたという感覚で自信が身につくんじゃないかと思う。

 

おわりに

数学などは自然から成り立っていると思うので、人間にわかりやすいというよりもありのままの姿が美しいとかそういった言い方をするような気がする。そういったものが実は畏怖されているのかもしれない。

 

自信というのはひょっとすると膨大なトライアンドエラーの末に何回もやったから安全だとか間違っても取り戻せると経験からわかっているから身につくものなのかもしれない。ということは失敗を責め立てたり致命的な失敗ばかりすると自信はいつまでたってもつかないということになる。こういった話をするとなんだか教育分野っぽいような気がしないでもない。プログラミング教育なんて話題もあるし、ぜひ怖がらずにやってもらいたいものだ。

怒りとは悲しみを隠すためのものだと思っている。本当の気持ちは何だろう。

 

自分は怒りとは大人が悲しいと思っていることを隠すためのモノだと思っている。自分が何かに怒っている時、他人が怒っている時、実はその怒りよりもまず悲しいことが裏にはあるのかもしれないのだ。怒りの只中にある時はそれに気づかないのだけれど、思い返したりすることで傷ついたとわかるときがある。

 

nikutai-shinka.com

赤ん坊は感情を快、不快から発達させて様々な表現を身に着ける。怒りは不快から誕生している。不快の気持ちも様々だが、基本のベースは悲しいという気持ちからではないだろうか。怒りとは自分の気持ちを戦う気持ちにさせ、悲しいという気持ちを一時的にマヒさせる。

 

だが怒りは長続きせず、ある種の興奮剤とか麻薬みたいなもので効果が切れれば一気に気持ちが下降する。最初は驚き、怒り…最後には無力感を感じ始め絶望し深い悲しみに至る。ここまでくると心身に悪い影響も出るので怒りの反応の理由を調べて対処することが必要じゃないかと自分は思っている。

 

例えば長い行列だとか満員電車などで思い切りぶつけられイラっとしたとする。これは正当な怒りだと思い、しばらくたつまでイライラしっぱなしで愚痴を散々言ったりすることもあると思う。けれどその根底にあるのは悲しさじゃないだろうか。なぜ自分が思い切りぶつけられたりしなければならないのだろうか。もう少し気遣いをしてくれたっていいのに。そういった自分の気持ちや感情を傷つけられたと思う。

 

人に怒りたくなる時もある。何度言ってもわかってくれなかったりやる気を出してくれなかったり、挙句の果てにこちらに逆切れされたり…。けれど、やはり根底には自分のことを分かってほしいとか不甲斐なさ、無力感、暖簾に腕押し…みたいなところを感じて悲しんでいるのだ。怒るよりもなにより自分が悲しい気持ちになっていることを認めて落ち込んだほうが人に攻撃するよりもずっとマシだ。

 

逆にあまりにも激怒している人に出くわすとぎょっとしたり、すごく落ち込んで悲しい気持ちになることもある。できれば怒ってほしくないし、こちらに攻撃する人の気持ちにはあまりなりたくはないが…。要はそういった人々も怒りの裏にはきっと悲しい気持ちやストレスなんかを処理できなかったという事情がある。

 

クレーム対応じゃないけど、相手が傷ついたことに対して謝罪することが大切だとは思う。まずは怒っていることに対して対処するのではなく相手の傷ついた感情に謝ること。…ただあまりにも常日頃から怒り続けている人は要注意だ。もしくは常に不機嫌で周りに当たり散らすような人である。

 

こういった人々に対して自分が受け入れようとしたり、傷ついた感情に配慮しようとすると向こうも遠慮なしに攻撃してくる。それはある意味怒りという体裁をとった甘えなのだ。誰かに悲しいという気持ちを紛らわせてほしいというものが非常に厄介な攻撃としてこちらに襲い掛かってくる。そんなものをいちいち対処することなどできないのですっぱり関係を断ち切ったほうが良い。

 

もしも周囲が怒りがちで不機嫌で、誰もがイライラしているとしたら皆が傷ついているということである。助け合いもできないような環境がそうさせているわけで、そういったものは個人がどうにかできるものではない。そのようなつらい環境が生んだ怒りのはけ口にされないようにしたほうが賢明だろう。

 

怒りとか不機嫌だとか…皮肉なんかも結局は感情が傷ついたというサインであると思う。そういった人々が多かったりすると大きな問題が転がっているんだろうなとわかる。自分がもしも些細なことにもイライラしがちになってきたとしたら、それはきっと自分の心の中で整理できていない悲しみがあるせいかもしれない。そんな風に怒りとはなんだろうか、自分は何にに怒っているんだろうか。何かに傷ついていないだろうか。そういう観察が大事じゃないかと思う。

 

おわりに

怒らない人はいないと思う。怒らない人というのはよっぽど余裕があるか、もしくは感情を隠すのが上手な人ではないか。もしくは自分が感情を押し込めていることに気付かない人もいる。そういった人はいつか爆発しないようガス抜きができると良いのだが…。

 

怒りとガスとはうまい例えだと思う。本当の根っこの部分を処理しない限り怒りはいろんな形であちこちから漏れ出してくる。ちょっと違った形でガス抜きしようが本当のもんだ解決には至らないところもだ。たまに怒ってしまったりはするのだけれど、怒ったときに自分の感情をきちんと理解できるようにしたいと思っている。

 

 

コミュニケーションが苦手な自分が心がけていること。共通点で話す。

 

話しやすい人は自分との共通点がある?

コミュニケーションが子供のころから苦手で、特に初対面の人だとかそれほど仲良くない人とはどのように話せばいいのかまったくわからなかった。けれども年を重ねてある程度経験を積んで理解できたことがある。人と仲良くするには共通項がいるのだ。共通項を見つけて、お互いに共通する部分を増やすことで話題が広がり接点も広がる。だから会話をする際には共通項が見つけられるように努力している。

 

共通項というものに気づいたのは学校で話す人と自分のおじいちゃんの違いについて考えた時だった。学校で話す人には授業の話、担任の先生の話なんかは簡単に通じる。けれども自分のおじいちゃんにそんな話をしても通じない。共通するところがないからだ。まだ自分のおじいちゃんなら家族という枠があるから少し話せるし、向こうも話を興味深く聞いてくれる。だが、年代が極端に離れた人には何を話せばいいだろうか。

 

そう考えた時、話しにくい人、付き合いづらい人には共通項がないから話すのが難しいのだと思った。逆に言えば共通項というものは話すのを楽にする、結束を強めるのに非常に役立つ。つまり学校という共通の場はそれだけで十分な話題を提供してくれる。例えば勉強が難しいとか担任が厳しいとか。お互いに共通しているからすぐに話は通じる。

 

共感が得られやすい

じゃあ初対面の人とはいったい何を話せばいいのか。まずは面と向かっておそらく話しているだろうから場所という共通項がある。何をしているかということも共通する。また友人から紹介されたのならば友人という共通項がある…。そんな形でひとまずしのぐ。お互いにわかっていることを話せればスムーズだ。

 

そこから共通する項目を探るように話していく。この年代の自分たちに共通することはなんだろうか?今流行しているものはなんだったか。流行しているものというのは強力ですぐに共通項が出来上がる。だから話し上手な人は流行に敏感なのだろう。初めて会う人にも流行の話題を振るだけですぐに共通項を持つことで困ったときなどに立ち戻れるからだ。

 

だから人と話すときは話が通じること、つまり共通項を意識して話すこと。そしてお互いに共通項を把握したり、はたまた相手の興味を持っていることにぐいっと近づくこと。そうすれば会話を少し持たせることができると思う。

 

なんとなく会話の続かない、共通項がなくて困る人がいると思うけれどもそういう時は自分自身に共通項を作り出す。相手が一番好きだったり、今一番がんばっていることを教えてもらって自分もやってみるのだ。そうすると熱心な共通項ができるから話しやすくなる。相手のほうがその分野の先輩にあたるのなら教えてもらったり便利なことを教えてもらえたりするのでより具体的な話題にもついていきやすくなる。

 

共通項、共通項と書いていたけれど、これはすなわち共感しやすいことともいえる。相手と自分がとても共感できること。それこそ会話で最も心地よくて長続きするものだと思う。自分はまだまだコミュニケーションがへたっぴなので、これぐらいしかわかっていないけれど、少なくとも以前よりはちょっぴり付き合うときの苦労が減ったように思っている。今後もいろいろ学びたい。

 

おわりに

間が持たないのは本当につらい。自分は間に本当に耐えられない。なんとなくそわそわしてしまっていたたまれない気持ちになってしまう。自分のせいで相手が退屈しちゃってるなあというのがあまりに申し訳ない。少しでも気分よく過ごしたいものだ。相手がスマートフォンなんかをいじりだしたら「ああ、自分はスマートフォンに負けたのか」と非常にがっくり来る。

 

だから逆に自分は対面で話していたり大勢と話している時でもスマートフォンはいじらないようにする。マナーだとかいう前に少しでも「あなたとの会話に集中してますよ、あなたの話を聞きたい」と見せないといけないと思っている。会話が下手だから。コミュニケーションに自信があったり、自分に自信があったり友人がたくさんいたりする人は容赦なくスマートフォンを目の前でずっといじれたりするので凄いなあと思う。

 

今でも会話には緊張してしまう。例え親しい仲だろうが基本は同じだ。喋る前には緊張とこれを話そうか、退屈してないかなど気を配ってしまう。なかなか面倒な人間だよなあとちょっぴり悲しくなりつつ今日も生きています…。

 

にわか「いき」の構造

 

言葉に含まれる意味 

「いき」の構造は難しい。現代文の問題として出ようものなら阿鼻叫喚間違いなしである。それぐらい読みづらいけれども内容はとても面白い。なにより青空文庫で無料で読むことができる。

 

九鬼周造 「いき」の構造

 

わかりやすかった解説記事としては以下が図と用語がまとまっていてよかった。

mitsuba.hateblo.jp

読んでいないけれど要約サイトも非常に便利そうだ。

www.flierinc.com

 

にわかに読んで思った感想としては「いき」という言葉の面白さである。日本語の「いき」というのは外国にはない日本固有のものが含まれている。そもそも「いき」という言葉にはいったいどんな意味があるのだろうか。

 

「いき」を漢字に変換すると生き、活き、息、意気、粋。こんなところが浮かんでくる。生きること、活き活き、呼吸…。そこからさらに精神的な意味合いの強い言葉である意気、そして粋であること。こういった意味がさまざまに混じった言葉は面白い。

 

言葉というのは文化の基本となるものだ。言葉が紡ぐことで物語も話し言葉も生まれるからそこに含まれる意味や成り立ちを知るのは重要である。そういう意味できちんと言葉の意味を知り、誤用がないようにしないといけない。

 

 おわりに

 なぜ急に「いき」の構造を持ち出したかと言えば「イキリオタク」なるものを聞いたからである。

dic.nicovideo.jp

 説明には「粋がってる」オタクのことを指すという。けれどもこの「粋」はどうも従来もっている意味とは異なっているように思う。粋がっているというのはやんちゃな、中途半端なプライド、そういったものを連想させる。

 

だが、最近はSNSだとかInstagram映えなんていう流行もあってかどうも世間からの注目を過度に集めたいだとか自分をひけらかしたい、そういった意味での「イキガリ」だと思うのだ。

 

matome.naver.jp

 いわゆるネット上のお前ら/現実世界のお前らの悪化版…いや進化版。進化したものだと思う。言葉というのは時代によってどんどん変わるものだから、現代的な意味合いを含んだ「いき」という言葉のことを少し考えてしまったのである。