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かやのみ日記帳

アニメ、ゲームの感想や思想などを書きます!

元気がないときは睡眠時間が足りてない。他の物では誤魔化せない。無理にストレス発散しないで静かに休む。

 

眠れていないことは一番のダメージ

最近あまりよく眠れていない。寝心地がよくないのか、どうも目覚ましよりも少し早めに起きてしまう。夢見は毎回楽しくてしょうがないのだけれども。今日はアドベンチャーな夢だった。もっと見ていたいな、楽しいなと思った頃にふと目が覚めてしまった。布団からもぞもぞ動き出して、どうにも眠りが浅いことを実感する。わりと早く寝ているし、早く起きている自信はあるのだけれど、まだまだ足りていないのだろうか。なんだか体も元気がないし、精神的にハツラツもしていない。おいしいものを食べているはずなのに、やっぱり体に元気がない。ということは眠りが最大に足りていないのだ。

 

”ストレス発散”で更に疲労がたまるという悪循環

こういう時に体を起こそう、楽しいことをしよう、おいしいものを食べてパワーアップ!とすると逆効果になりがちだ。そういった楽しいことを望んで歩き回ったり外出したりエキサイティングに人と会話する行動には、エネルギーが当然必要になる。この時、エネルギーの収支があっていないと当然疲労がたまる。

太陽光を外に出て浴びよう!というのはよくある話だけれど、正直太陽光を浴びて元気になれるというのはいささか信者にすぎる。太陽万能論は簡単で強力に見えるが、まともなお医者さんなら患者さんの様子を見て「ゆっくり外に出ず休んでください」という指示をするはずだ。そんなに太陽光が必要なら窓を開けていればいい話だ。外に出る必要はない。

ストレス解消をしようとして必死になってエネルギーを使い、その反動で負荷がどんどん高まってしまう。筋肉痛に既になっているのに更に運動して超回復を目指そうとする感じだろうか。超回復を神聖視しすぎている。きちんとした栄養を取って休むことが筋力トレーニングでは大事とされる。トレーニングと休息は同じ価値を持つ。これと同じことが精神的なダメージとかストレスにも言えるのだと思う。

疲れていたり、ストレスが溜まっている時は無理に外に出なくていい。いわゆる”ストレス発散”に期待を持ちすぎてはいけない。”ストレス発散”がきちんとできれば自分の今抱えている疲れや不安な気持ちが吹き飛ぶと思い込みたいのかもしれない。だが、実際は自分をますます頑張らせてしまうだけだ。自分が暗く落ち込むように外に出ないことを恥じる必要はまったくない。どうも世間は疲れて家に籠ることを”回復法”とは考えられないらしい。

ちょっと考えればわかることだが、肉体的疲労に何もしない休息が必須だと言えるのに、どうして精神的疲労に”なにか活動的なこと”をしなければならないんだろうか。ゆっくり何もせずに休んだことを精神的な超回復とでも言えばいい。もう少し精神的な休息も市民権を得てほしいものだ。

 

疲労回復の最大の手段、休息をお金で何かに代替してませんか

同じように栄養についても世間は厳しいように感じる。疲れている時にこそ栄養たっぷり、回復を早めるものをたくさん食べよう、とか。だが、そういうのは健康になってからでいいと思う。本当に疲れ果てたときはまず休息が第一だ。休んだ後で食べたほうが元気になれる可能性はある。自分の体験だが、つもりに積もった疲労と良質な栄養は交換できない。疲労の回復には間違いなく休息が必要だ。

本当に簡単なことだが、どうも”休めない”、”24時間がんばらなくては”なんて言ってると疲労をなんとか別なもので代替したくなる。けれども所詮、代替でしかない。良質な栄養なんかより余程疲労に効果があるのは何もしないで休むことだ。自分に休むことを制限したり、削ったりしたツケは何かでごまかしたくなるかもしれないが、それを無理をするというはずだ。人間の基本機能を削って生きようとすれば、機能不全に陥ってもおかしくはない。

 

明日の自分のために、”今”休むという選択肢をとること

精神的に疲れてるなとか以前よりも楽しくなくなってきた…と感じたときにすることはまずゆっくり寝ること、何もせず休むことだと思う。何か楽しいことを見つけなきゃ!として”焦って探す”ということが既に多大なるエネルギー消費になってしまう。焦らず今は充電期間…とそのままの自分を受け入れること。そして今は不十分な状態、元気がない状態なのだから元気がある状態になるまで待つことだ。無理やり自分を元気がある状態になんてできはしない。自然な回復によってのみ元気がある状態になれるはずだ。だから今元気がなくても問題はないと考えること。

日常に不満があったりイライラしていたとしても、明日の自分が元気ですっきりと過ごせることを祈る。そういうことを自分にしてあげられる自分にしてあげたいなと思っている。今の自分が頑張るために、今の自分を犠牲にしてしまうと明日の自分はもっと苦しくなってしまう。だから今の自分を大切にするために、今の自分をゆっくりと休ませてあげると明日の自分が頑張れるんじゃないか。

”今”を生きすぎていると、未来が犠牲になったり未来を信じられない気持ちになってしまう。”明日やれることは明日やる”じゃないけれど、明日の自分が元気で過ごせるように気遣うことはきっと素敵なことなんだと思う。

 

読書が好きになったきっかけは齋藤孝の「三色ボールペンで読む日本語」だった。

 

読書に対する”姿勢”を変化させて壁を破ってくれる本

三色ボールペンで読む日本語 (角川文庫)

三色ボールペンで読む日本語 (角川文庫)

 

自分がこれほど読書が好きになったきっかけは間違いなく「三色ボールペン」のおかげだ。当時は世界一受けたい授業が流行っていて、齋藤先生の回はかかさず見ていた。段取り力、質問力、読書力…それぞれ表紙もきれいで、全て本棚にある。○○力という本が爆発的に増えるきっかけとなったのではないかと思う。ともかく、三色ボールペンを使った読み方はある意味自分の読書に対する壁を破ってくれた。

 

第一の壁:本に線を引くという抵抗感

三色ボールペンによる読書方法を簡単に説明すると、非常に重要で絶対にはずせない文章に赤い線を引く自分が重要だと思ったもの、あると読解に役立つものに青い線を引く。最後に自分が面白いと思った文章に緑色の線を引く

 

たったこれだけだ。だがこの読書法のハードルは高いはずだ。まず本に線を引くということがまず難しいけれど「三色ボールペンで読む日本語」という本、それ自身が線を引いて楽しんでほしいと書いてある。おまけに三色ボールペンがくっついてた気がする。齋藤先生が厳選して選び抜いた名文がいくつも並んでいるから、思わず自分も線を引きたくなってくる。ああ、線を引いて読んでもいいんだなと思えると読書への壁がひとつ破られる気がする。

 

そして、強力なものがある。それは書いたら消せないということだ。これは悪い意味に感じるかもしれないがそうではない。齋藤先生は”読書には緊張感が必要なのだ”と主張している。作者の主張と向き合い、決して誤ったところに線をひかないように、一度にぴしっと線を引く度胸が居る。それには本に呑まれないようにする心がいる。初めから「この本の内容を要約するできる気がしません!」と言って読む人がいるだろうか?

だが、多くはそんな感じで無意識にぼんやりと読んでしまっている。本を読むという動機すら理解していない人もいる。そういう人がボールペンを持ち、本に向かってただ一度だけの線を、絶対に外せない線を引くこと。間違ったところに線を引いてしまえば、自分が誤った理解をしてしまったことに他ならない。だとすれば真剣に作者の主張を読み解こうとする。こうした真剣な姿勢を初めてとってみて、一冊書き終えてみたときふと「ふぅ…」と息をつくはずだ。そのとき初めて気づくだろう、普段の読書に対する自分の姿勢を。一度でいいから真剣に向かい合った時、読書に対する意識が劇的に変化する。

 

第二の壁:どれも重要で線をたくさん引いてしまうから真っ赤に

三色ボールペンでの読書は奥深く、そして読書がいかに難しいかを教えてくれる。まず赤い線。本の中でも語られているが、下手な人ほど赤い線ばかりになってしまう。それは本を要約する力がないことに等しい。はっきりと自分が下手なんだと視覚を通じて教えられてしまう。そう、教師なんていなくても三色ボールペンの色付けだけで自分がうまく要約できたかわかってしまうのだ。それは自分の中に読書する、本をきちんと読もうとする心を育むことに等しい。

とはいえ本書の中では辛辣に”これは読む力がなくなった日本人のためのリハビリ”なんて書かれていた気がする。少し辛い気持ちになるが、先生がお手本の”赤”を教えてくれる。この文章だけは絶対に外せない、ここに赤い線を引くのではなく、青い線にしましょうと言った形に。

この赤い線が自分の中でしっかりとわかるようになったとき、確かに国語の文章題なんかでも作者の主張は何か?ということや感想文を書くときに本当に役に立つ。なんとなく曖昧に読んでいるともう一度思い出したり探すために読み直すことになる。だが、読み直す必要があるということは、結局文章というものを読んでいないのだ。だが、線を引くということによって文字の羅列から”作者の主張”という明確な文章を浮かび上がらせる。

 

第三の壁:文章を切り捨てたくない甘えから真っ青に

だんだん赤い線を外さなくなってくると今度は青い線が増えてしまう。”なんとなく”重要そうだから…と思っていると本が真っ青になってしまうのだ。これは自分の中できちんと本の情報を”切り捨てられていない”証拠になる。やはり要約が足りていないのだ。重要な情報を要約するときに、余計な情報を加えてしまっている。要らないおせっかいみたいな文章を付け加えてしまうのは編集の能力がないのだ。

きちんと大事な部分を伝えるのならばピントを絞り、情報を削らなければ主張がぼやけてしまう。たくさん引けば”とりあえず安心”という心を捨てるステップが必要なのだ。それは本が好きで好きでしょうがない人にも当てはまる。例え好きだったとしても、著者の大切な主張の要約の為に、不安でもバッサリと切り捨てる勇気が必要だ。

そうして青い線をきちんと引けるようになると、自分の中で文章を読む心が育っていることを実感できる。本の中で赤い線がきちんと1ページに1つほどしっかり存在し、その周りに2~3つ青い線がその主張を支える。それらが全体にわたって引かれているならば自分の中で本が読めたということになる。

 

読書の楽しさを知るための緑

さらに緑色の線がある。これはもう自由にたくさん引いてもいい線になっている。本当に自分が面白いと思っているなら緑色ばかりになってもいい。だから緑色が引ける部分を探して楽しく文章を探し回れる。そうして緑色をたくさん集めると、自分の中で素敵な表現として記憶される。ただ文字を眺めるよりも自分できちんと線を引いたときのほうが記憶に残るからだ。あとで読み返してもたくさんの緑の線があれば、ああ楽しく読めたんだなとわかる。もちろん面白い文章だけを選りすぐってもいい。緑は読む人にゆだねられた線。赤と青は著者の意を汲み取る線なのだ。

 

 

そうして三色ボールペン読書を続けると面白いのは自分の成長の跡にもなるという点だ。子供だった頃に引いた線を後から見てみるとまったく違うなあと感じたりする。自分の中での主義主張の変化がそこに存在するのだ。自分の読書の目が肥えたり、精神的な成長によって読書の際に引く線が変わっていく。本そのものが読書記録になるのだ。だから、同じ本を買ってもいい。中古で本を買ってもいい。たくさん線を引いて読書する楽しさがそこにある。

また新しい線が引いてみたい、もっと素敵な文章を読みたい。もっと三色ボールペンのインクを減らしてみたい。でも、それぞれのインクをきちんと平均的に使わなければ。そんな感じで読書を続けるだけで自然と「読書力」が養われる。今でも自分の読書の原点は間違いなく「三色ボールペン」式なのだ。

 

…ちなみに本文が白黒なのはちょっとした遊びである。普段は色を使うのだけれど、今回は読者さんにゆだねるということで、太字の強調だけにしてみましたとさ。

  

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

 

 

デジタルネイティブとの違いを分かったうえで生きていく。

 

考え方の違い

自分よりも若い人と接するとき、年上だから体験した数だけは少し上かなと思うけれど身体的感覚だけはまったく別なんだと実感するときがある。まったく未知の物や新しい問題にぶつかってしまった時の体や頭の動き方、そして発想の源がまったく違うことを知ったうえで生きていかなくちゃな…と自戒している。

昔からよくある新人さんが常識がないとか、逆に上司が老害だ!というわけではなくて、ただなんとなく世代の違いがあるということをしっかりと認識して棲み分けることが必要だなと感じている。この世代の違いというのは携帯電話の世代のようなイメージだ。ただ人間の構成自体はまったく変わっていないので、結局はバージョンが違うソフトウェアのイメージのほうが正しいのかもしれない。同じバージョンだと思って接すると痛い目に合うのはお互い様だ。

 

決して同じになれないこと

新しいバージョンの人として自分よりも若い人と接すると自分のバージョンが明確になる気がする。自分が思っていたよりも枠にハマっていたこと、発想が今の時流には少しだけあっていないんじゃないかと感じる。もちろん新しいものに適応しようと頑張るのだけれど、どことなく諦めや悟りが必要で自分のバージョンの保守に回る必要が出てくるのだと思う。それは生まれてからの環境から得たものは、後天的にはきっと手に入らないからだ。自分の体で覚えてしまったことの違いの差は本当に大きいものだと思っている。

 

昔、東京に出てきてタッチパネル式の切符売り場に酷く感動したものだけど、今は赤ちゃんですらタブレットで遊んでしまう時代。そして今の若い世代は全てその入力方式が当たり前という常識で生きている。それは羨ましいとか自分がダメだ、古い人間だ、新しくしなければダメという気持ちではなく、自分はこの時代に生まれて、この知識を持って、この世代の人間にしかできないことで生きていこうとすることが大切だと思う。自分たちの世代を過剰に否定したり肯定するのではなく、ただそうあることを認めて生きていきたい。

もちろん自分たちの世代ばっかり見たり、上見たり下見たり…というのは主体性がない。ようは自分の一要素として”この世代です”と自覚して、それを自分で活かして”現在”という時流に何かをするというだけだ。自分の立ち位置を明確にして、ちゃんと固定された視点でもって何かを成すだけだ。

 

案外新しい世代に目移りして必死になって新しい世代生まれのような人間になりたがる人もいる。それはある意味決してネイティブになれない英語上手な人のようだ。そうじゃなくて、ただ日本人として英語を喋り、何をしたいかをはっきりさせればいいと思う。ネイティブに過剰に憧れるのは無駄なことだし、かといってネイティブをバカにするのも奇妙な話だ。優れているとかそういう話ではなく、互いの特性を理解したうえでコミュニケーションが取れればいい。そこに配慮があればますますいいだけだ。

 

おわりに

新しいバージョンだからすべていいわけでもなく、古いバージョンだから安定していると言いたいわけではない。ただ本当にバージョンが違うだけだ。新しい時代に生まれてきて、その時代で学ぶことをきっちりと学んだ人間なんだと思う。自分も同じだ。互いの時代に生まれて、生きているだけ。それでも分かり合って互換性を持てるようになるといいと思う。

外国人が日本にやって来てカタコトの日本語でしゃべるとき、自分たちがネイティブとして意味がくみ取れるよう配慮するだろう。逆に自分が非ネイティブになる英語圏で英語が下手だ、Engrishと笑われるとき心が痛むだろう。そうした気持ちをデジタルネイティブなどにも同じように感じられるんじゃないかと思う。

 

 

変わった人だって言われるけれど、変わってなんかいないはずなのに

 

変わってるという評価は安易だと思う

よく変わった人だと言われてしまう。ある程度親しくなったり話を重ねて、ふと間があいたとき、変わってるという評価を下されてしまう。そのたびに曖昧に笑ってごまかすのだけれど、本当は絶対に違うのになあと思ってやまない。結局人間性をわかりきれず考えを受け入れられないから安易に”変わってる”という評価をつけて理解を拒んでいるんじゃないかと思っている。

それはある意味自分の中の価値基準や判断基準にそぐわない異物として無意識に警戒された瞬間だと思っている。だからこそ異なっている、普通とは違う、自分とは相容れないという意味を込めて”変わってる”とされてしまうんじゃないか。物語でも天才的な発明家や芸術家はよく”変人”っぷりを強調されてこれでもかというくらい周囲に変人扱いされる。そのたび変人たちは自分たちは変人じゃない!という主張や他の人には理解されないことだから仕方ないという諦めを持ちつつ、結局は自分を曲げられずに生きるしかないというところに落ち着くのだろう。ここらへんは非常に定番といえば定番なのかもしれない。

 

変な人は変という評価を覆せない

現実で変人扱いされてしまうとなかなかその評価が覆ることがないから少し困ってしまう。理解できないものを受け入れない、もしくはなるべく拒むという警戒態勢を敷かれている気がする。本当の意味で真面目に受け取ってもらえる機会が少ない。自分から変人じゃないということを丁寧に説明するのは労力がいることだし、向こうも結局はわかりたくないと思っているのならば自然と距離は埋まらないままになってしまう。こうして誤解と偏見は残り続けるのだろう。

変人じゃないことを懇切丁寧にわかりやすく”普通”の人に説明して、あくまで普通の延長線上にある人間であることを理解してもらっても結局のところ「そんなに必死に説明するなんて”変な人”」というオチがつきそうなもので、まあ非常にどうしようもない話だ。変人は変人として扱われることしかどうしようもないのだろうか。

 

変人とされる人々は自分自身をまったく変人だとは思わないだろう。自分のことを変人であるという人間はまさしく変人だし…としてると論理パズルになるのでやめておく。自分たちが自分たちの中で正しいと思っていることを世間一般では間違っていたり、外れていることだから変な人扱いされるだけだ。世間がじょじょに変化することで変な人から普通の人のように扱われるのだろう。そういった認識のずれは文化の成熟や物議をかもす作品、事件などによって徐々に変化するはずだ。今なおLGBTとかマイノリティに属する人々が自分の在り方に悩んでいるのだろうと思うけれど、本人たちにとってはそれが当たり前だったり、普通のこととして受け止められている。それを世間の人々が無意識に警戒していたり、考えを受け入れたくないという気持ちが強いから変な人間として扱われるのだろう。

 

偏見の払拭は本当に困難な道

変なイメージや偏見がついたときにそれを払拭するにはとてつもないほどの労力が居る。子供の頃コカコーラは歯を溶かすと言われていたけれど、必死になってその偏見を払拭していた人を知っている。その人はコカコーラの営業さんで、きっとコカコーラが好きだったんだろう。必死になって説明されたけれど、母親が子供に悪いとかもし本当に歯が溶けたら嫌だからと言って飲ませてくれなかったのを覚えている。

自分がわかって理解していても、自分以外の周囲が協力的でなかったり懐疑的だった時、それを理解して受け入れてあげることは難しい。これはいじめでも同じだ。いじめられている人を守るのは難しく見守ることがもっとも害が少ないとわかっているからいじめはなくならない。自分がおかしいといった時、そして言えるときにマイノリティに属するのが嫌なのだ。自分は必ず多数側にいて、そして安全であることを保障されていたい。だから偏見や思い込みの排除は難しい。支持する人が圧倒的多数にならない限り、もしくは強力な力がない限りきっとなくならないんだろう。

 

おわりに

”変わってる”とか差別とか偏見とか。そういったものに接した時に自分が理解したくないんじゃないか、受け入れたくないんじゃないかと気付くことが大切な一歩なんじゃないかと思う。いつも”変わってる”と言われ続けたせいか、自分がそういった判断を下しそうなとき、ふと自分がどう感じたかをよく考えることになった。”変わってる”という言葉は本当に気楽で、簡単に頭の中でフィルターをかけれてしまう。けれどもその強力な言葉に頼らずに、自分なりに細かく、新しく理解しようとする試みが偏見などを減らせるきっかけになるんじゃないかと思っている。

 

Kindle Paperwhiteのレビュー。一番不満になる点はハイライト機能だと思う。せっかくいい機能なのに…

 

紙と変わらないという信じられないほどの衝撃

Kindle Paperwhite Wi-Fi、ブラック

Kindle Paperwhite Wi-Fi、ブラック

 

Kindle Paperwhite読書好きな自分にとって最高のデバイスと言って間違いない。電子書籍について当初思っていたのは、PCやスマホで長時間見るのには明らかに向いていないし、画面サイズも非常に中途半端だ。操作も非常に面倒だし、やっぱり手になじんだ紙のほうがいいやと思っていた。

ところが家電量販店で見かけて手に取ったとき、衝撃を受けてしまった。これは…紙だ。紙なんだと。黒い枠の中に紙が収まっているとしか思えないほどだった。そしてこの直感は非常に正しいことが後でわかった。PaperwhiteではEインクと呼ばれるものが使われていて、これはカプセルの中にインクが入っていて白黒を電子的に切り替えられるものだと思っていい。

つまりこれを使えば実際に印刷してるのと同じことができるというわけだ。ユーザーがページをめくった瞬間に次のページを紙に印刷していることに等しい。印刷後は紙と同じだから余計な電力も消費しないし、発光させる必要もない。長時間読むのに非常に最適なデバイスになっている。

更に言えば片手で持てるというのも大きい。普通大きめの本は片手では持てず、結局両面を開いても見るのは一ページだけだ。つまり半分は基本的に無駄になる。だから一画面だけで十分だ。…書いてて思ったがPaperwhiteを二台買って両開きにして、同期をとってうまくやる…というのもまあ面白いかもしれない。

 

電子媒体という特性やPDFが読めるという利点を活かす

ともかくPaperwhiteはリアルな書籍と謙遜ない、むしろバージョンアップしたイメージだ。紙は一度印刷すると訂正はできないが、電子的に瞬時に印刷しているPaperwhiteならばネット上で正誤を瞬時に変更できるし、ユーザーも本文の大きさやフォントを自在に変えられる。この影響は非常に大きくて、小さい文字にして一ページの密度を高めることでページめくりの手間が省けたりする。なにより三冊くらいはしご読みをしていてもフォントや大きさの違いで疲弊せずにシームレスに読めるのも面白いところ。なによりかさばらないことも好感度高しだ。

またPDFが読めるのもよい点だ。論文を読むときにディスプレイで細かい文字を読むと疲れてしまう人も多いはずだ。それを嫌って印刷して線を引いて…とやるのもいいが、Paperwhiteにいれてしまえばわりときれいに読める。ちなみにPowerpointの資料もPDFにして入れてしまえば目が疲れずに資料がかさばらなくてとってもエコだ。

 ネット上に落ちているPDFでこっそり入れて楽しんでいるのが 「数学:物理を学び楽しむために 」(学習院大学 田崎晴明教授)だ。ちなみに今は何故か学習院のサイトが落ちてて見れない。残念。だが600ページにもわたる面白く丁寧に解説されているPDFなのでダウンロードして損はない。600ページを普通のスマホやPCで見るのは辛すぎるし、印刷すると大変なことになるのは間違いない。とすればPaperwhiteに入れるのが一番の良策だろう。

 

いい機能だからこそ、本当にもったいないハイライト機能に悶える

ここまでひたすら褒めちぎっていたけれど、非常に厄介で困っている問題もある。それがハイライト機能だ。これは文章をドラッグすることでマーカーが引けるというもの。そしてマーカーをひいた個所は他のデバイスでも共有でき、コピー&ペーストできる。ブログなんかにも手軽に引用できて便利だろう。

この機能を見つけたときは本当に感動した!なぜなら今まで紙の本にマーカーをひいたら取り返しがつかなかったからだ。だが電子書籍ならマーカーの履歴を消せば元通り。だとしたら引かないわけにはいかない!楽しく自分の好きな場所や目を引きたいところにばんばん引くことができる。そうすれば自分なりにスクラップした本ができる。自分なりの要約した本になる。

と思っていたのだけれど、実は罠がある。著作権かコピーガードかわからないがマーカーをひくのには制限がある。だいたい100~150回くらいでアウトだ。(文字数制限かは不明) 厚めの本で適当に線を引いていても1/3くらい読み進んだところで「このアイテムのクリッピングの上限に達しました」と出てしまい、一気にしらける羽目になってしまった。ぶっちゃけコピーなんかできなくてもいいから単にマーカーだけでも引かせてくれればいいのに、それすらも許してくれないAmazonは…。

このハイライト機能はホームで各本ごとにどこにハイライトしたかをまとめてくれる。上手にハイライトを使うと本の簡単なまとめ、重要な文章を的確にまとめることができて、後から読み返したり書評を考えるときなんかに非常に有効だ。なのだが、あまりにも制限が厳しすぎて、正直言うと宝の持ち腐れになっている。せっかく電子書籍になったのだから、線くらい自分の好きに引かせてほしいものだ。

 

おわりに

とはいえ高水準にまとまってバッテリーの持ちもよく、そのうえフォントサイズやPDF閲覧、目が疲れない事や片手で持てることを考えればコストパフォーマンスは最高といっていい。で、願わくばハイライト機能が改善されることを期待したいところだ。

本当にいい機能でヘビーな読書家が買うデバイスなのにも関わらず、自由に線が引けないというのは致命傷にすぎる。機能面をぜひとも分割してほしい。単なるお絵かき的なデータとしてマーカーを使うモードと引用・コピー・ザッピングモードのように分けてほしいものだ。