かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

文章をもっと削りたいという向上心

 

最近、自分の文章をもっと削りたいという気持ちが強くなってきた。

もう少しいい表現があるんじゃないか、もっといい順序があるんじゃないか。

今まで気にしていなかったことが気になって、書きづらくなってしまった。

 

おそらく更新をしばらくしていなかったせいだろう。

そのおかげで自分の文章を客観的に見れるようになったらしい。

だから書くスピードも文章量もすごく落ちたけれど、これはこれでいいと思う。

より丁寧に書きたいという欲だからだ。

 

ただ自分の好きなことを思うがままに書けばいいという気持ちじゃない。

自分の内側だけじゃない、外側への気持ちだ。

もっとわかりやすい、いい文章がかけるんじゃないか。そういう期待がある。

 

こういったサイクルはブログを始めてから何度か経験したことがある。

そのたび書き方が変わった。そして、自分なりにいいなと思える形に落ち着いてきた。

だから次に自分がどう変わるのか、ちょっと楽しみだ。

 

一瞬でわかる、おいしい空気

 

今朝、外に出たらとてもおいしい空気だった。

すぅっと吸い込んで、ああ、いい空気だなと感じる。

呼吸するのが気持ちいい空気。すっきりとした気分が晴れる空気だ。

寒い日も、暑い日も、雨の日もそういう空気はある。そう感じる。

 

今日はいい空気です、なんて指標はたぶん発表されたことはないだろう。

天気予報のようにいい空気度もたぶんない。

でも、自分にとっていい空気の日はある。その日がいつかはわからない。

 

自分の体調が悪いときもいい空気だと思う時がある。

そういうときは、やっぱりちょっとうれしい。

だからきっと体調によらずいい空気のときというのはあるんじゃないだろうか。

 

家を出て、ぱっと外から入ってきた空気を思わず吸った。

あったかいのか、つめたいのか。そういうのも呼吸でわかる。

でも温度とかじゃなくて、懐かしい感じとか乾いた感じ。

そういうのを感じられるとなんだか嬉しいのだ。

毎日いい空気じゃなくていい。きまぐれに感謝したい。

だれも責めず、あるがままに

 

 

正月の三日間ぐらいは毎日更新せねばと思って記事を頑張って書いている。

これが1月くらいは…とか思って更新できたらいいな、と思う。

 

内容をどうしようか迷って、好きなことと苦手なことを書いてみようとした。

好きなことは食べ物について書こうとした。

が、毎回というほど毎回か忘れたがあまり芸がないので書くのは一旦やめた。

 

今度は苦手なものである。苦手なものと言ったらご飯のおごりだ。

おごられるというのがちょっと苦手というのをなんとか明るく書こうと思った。

 

だがこれも妙に暗くなったり、自分を責めてしまう文章を書いてしまう。

書いているうちにあれやこれや、昔世話になった人を思い出したりする。

そうするとその人達を悪くは書けない。配慮した文章になる。

関係者が多いほど、そして話題が暗くなるほど書きづらくなる。

のびのびとした文章にはなりづらい。

 

反面好きなものというのはそれに対する感謝の気持ちとか、そういうので明るくなる。

人への感謝の気持ちというのも自然に出てくるといい感じだ。

苦手なものより好きなものを書いたほうがいいのに納得した。

 

が、まあ苦手なものを正直に書くというのが悪いわけじゃない。

素直に書くと気分がすっきりする。

人を責めず、自分を責めずの文章が良いと思う。

人を責めるのは、読んでいる人が責められる気持ちになったりもする。

自分を責める文章というのは女々しく、ちょっと気持ちが落ち込む。

 

誰も責めずというのが良いように思う。あるがままという感じだ。

そこまでの文章をすんなり書けることはほぼない。

だから、なるべく明るい文章を書いていきたいものだ。

骨折り、江戸かるた、五重塔への道草

 

ふと骨が折れるという言葉が気になった。

苦労する作業をやらなきゃいけないとき、「これは骨が折れるな」と言う。

でもよく考えると、骨は折れない。骨折まではしないだろう。

かなりおおげさな表現である。でも日常で気軽に使っているのも事実だ。

 

では、どこの骨が折れてしまうのだろう?足の小指?

「これは足の小指が折れるなあ」なんて随分とシュールだ。

それに普通に骨が折れるよりよっぽど痛いようなイメージがする。

 

まあどこの骨かはよくわからない。魚の骨が折れるわけでもあるまい。

自分の骨が折れるような苦痛を味わうという意味で使っているはずだ。

 

 

ほかにも似たような表現がないかと思えば「骨折り損のくたびれ儲け」。

これ、語順を間違って覚えていた。くたびれ損の骨折り儲けとか。

まあどちらにしろ意味は通じる気もするが、とにかく皮肉な意味である。

 

こちらの語源は「江戸かるた」。かるた - Wikipedia

全然知らなかったが、犬も歩けば棒に当たるとかは、江戸いろはかるたが原典らしい。

ということで、かるたのときには「ほ」で取らないといけない。

 

 

骨折り損のくたびれ儲け - ウィクショナリー日本語版

そして、このWikipediaの記事にはリンクがあって詳しく書かれている。

だが原典はどうやら載っていない。

 

が、気になるのは幸田露伴の『東西伊呂波短歌評釈』についてだ。

東西でいろはかるたの読むものが違うことに触れている様子。

徒労の身を疲らす有るのみなるを嘆じたるは東の語、慈顔も之を冒すこと数数すれば怒ることを云へるは西の語なり。

西の語は仏の顔も三度までのことを指しているのだろう。いい文章だなあと思う。

ちなみに尾張では 惚れたが因果だそうだ。かるたもどうやらいろいろあるらしい。

 

 

そういえば幸田露伴は聞いたことがあるが、代表作は何だったかなと寄り道。

五重塔 (小説) - Wikipedia

調べてみると五重塔

 

あらすじがいい具合にまとまっていてすっかり読んでしまった。

青空文庫にも五重塔はあったのだけれどさらにいいものも見つけてしまった。

どうやら現代語訳を試みたいい人がいるらしい。とてもきれいな文章に見える。

https://ncode.syosetu.com/n7229ey/

正月休みに暇ならば、読んでみるといいかもしれない。

 

そんな感じでふと、骨折りという言葉からずいぶん寄り道した。

これもまた骨折りかなと思うけど、損はしていない。

正月らしくかるたを調べ、いい文章を読めたのでいい一日だったと思う。



…とここまで書いて、ブログに投稿しようとして気づいた。

昨日のお正月の文章に”骨が折れる”なんて書いてあることに。

どうやら昨日から無意識で妙にひっかかっていたらしい。

ちょっとだけスッキリしたし、おかしかった。

今年もこんな感じで、自分なりに書いていけたらいいなと思う。

書き続けること。

 

新春あけましておめでとうございます。

今年もよろしくおねがいします。

新年早々ここで記事を書かないと、どうも先が続かない気がする。

 

自分が発見した事実について書こうと思う。

ブログを二年続けてわかったことだ。まあ、ずっとわかっていることだが。

 

ブログ記事に比例してアクセス数は増える。

ただ、これだけだ。

 

これは本当かな?と疑う人も多いと思う。必ずしもそうはならない?

たくさん読む価値のない文章を書いたところでアクセス数は増えない。

だから本当にいい記事を厳選して書いたほうがいい…。

 

そう思いがちだが、一般的にブログ記事を書くのは本当に骨が折れる。

文章を書くというのは、独り言を言い続ける作業のようなものだ。

誰かに向かって書くというより自分に「なにを書く?」と聞き続けるようなものだ。

もちろん誰かに向けて書こうというときもあるが、相手は返事もしてくれない。

 

文章を書くのは会話よりずいぶん疲れる作業のような気もする。

会話は往復があって、そのぶん休憩したり予期せぬ刺激に元気になったりする。

が、文章は基本的に一人で書くものだ。

スピーチの文章を書くのに苦労したことはないだろうか?あんな感じだ。

 

だからなるべく書くというのはいいことだ。

苦労することを人間はあまり続けられない。走っている最中に止まると疲れる。

 

 

そしてもう一つ。いい記事というのは自分が思ういい記事ではないということだ。

いい記事かどうかは読者が判断する。自分ではない。

 

自分の記事を書かなければ、来てくれる人はゼロ人だ。当然だが。

だが、書けば可能性はゼロではない。その可能性を積み上げることが大事だ。

 

同じように見える記事でも、人や時間によって解釈が変わり、評価も変わる。

だから多くの記事を書くことは、実は巡り巡ってアクセス数を増やす可能性になる。

 

 

また入り口を増やすきっかけにつながる。多くの人がブログを読みには来ない。

記事を読みに来るのだ。なにか情報を読もうとする。ただそれだけだ。

そこからいい情報だと思われると、読者になってくれたり、たまに見に来てくれる。

多くの情報を書く人には、多くの人が来てくれる。そんな感じだ。

 

自分が想像もしない形で訪れていろんな記事を読んでくれる人も案外いるのだ。

アクセス解析はたまにそれを教えてくれる。

たくさん記事を書いているとそういうのを見るのが意外と楽しい。

辺境のお店にわざわざ足を運んでくれたお客さんをニコニコ眺めるようなものだ。

 

 

コンテンツを作ること全般に言えることだと思う。

もうひとつ。水清ければ魚棲まず。ある程度散らかった文章も悪くない。

そう思ったほうが、適度に記事が書ける。

 

悪い文章は自分の成長の餌にしてしまえばいい。

だめだなあと思うなら、それを書いた上で次はいい文章をと書いたほうがいい。

次にきっと自分は書けるはずと寝てても成長はあんまりしない。

 

 

じゃあ書いてないのにたまにポンッと書いて成功する人はなんなのだ?

それは、文章を書くというジャンルで成長したのではないと思う。

 

きっと別なところで鍛えた結果、それをうまく文章に変換できただけだと思う。

話すのが上手い人、きちんと仕事の整理ができること。そういうものも変換しやすい。

人にうまく説明できる人も同じようなものだ。案外文章を書くのに似た技術は多い。

 

 

まあ自分も成功なんてしてないが、それでも続けるのは楽しい。

こうして書いていることが、なにかの役に立っていると思っている。

だから書いている。それを続けようと思う。