かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

旅行には少し悪い思い出があっていい

 

ちょっぴり悪い思い出がいい味を出す 

旅行にはトラブルがつきものだ。多少のトラブルは思い出すと笑える。

旅行の最中にはホントに参るのだけれども。
でも思い出に残りやすい。
いい思い出とちょっと悪い思い出があるとちょうどいい。

 

さて、思い出の家族旅行と言ったらお昼ご飯が食べれなかった旅行である。
道に散々迷ってすごい時間がかかった覚えがある。
当時子供だった自分にはなによりも地獄だった。

もはや旅行どころではなく景色も全く見ていなかった。
とりあえずどこかでご飯を食べようと必死だった。

 

そうして観光地でのご飯を諦め、適当にファミレスに入った。
でもそこで食べたご飯があまりもおいしかった。
結局家族で美味しく食べれたしよかったね、と。
お腹が膨れれば人間単純に幸せになる。子供ならなおさらだ。

 

観光地で何を食べるかよりも家族で仲良く食べることを大事にしたほうがいい。
イライラして行列に並ぶよりも食べたいものを余裕を持って食べたいものだ。

 

大人になってからぶらりと一人旅をたまにするのだけれど
ふと混雑したレストランなどを見るたび家族旅行のことを思い出す。
そのたびあんまり無理せず自分らしく楽しめる食事をとろうと思う。
結局旅行は楽しめたらいいのだ。そんなことを学んだ。

お店に入る前に自分のことをわかっててほしい

 

事前に出しておきたい情報

ポイントカードがとっても苦手である。かさばるし出すのを忘れる。
最近はアプリなどになっているが面倒だ。
なにか便利な方法はないかと考えていたが、ふと思った。
料理を待っている間暇だなあ、と。
来店直後にポイントが貯まるようにしてくれればいいのに。

 

そもそも店側がポイントカードを作りたい理由はなにか。
5回来店で半額みたいなポイントカードは来店可能性を高めたいのだろう。
毎回の料金の1%還元みたいなポイント制の場合、なにを注文したかを知りたい。
そして高い料金を使っても還元しているから少しお得感がある。
けれどもそれらは事後の情報だ。事前に店側は情報を持っていない。

 

事前に情報を持っていると便利だなと思うのは回転寿司である。
回転寿司ではそれぞれに好きなネタの傾向があると思う。
だから過去の注文傾向がわかっていればすぐ提供できる可能性が高まる。
需要を先に把握することができるのだ。予測を立てることは重要である。

 

究極的に言えば店に来る前にお客さんが何を食べたいのかがわかっているといい。
そうすれば提供は早くできるし材料などの余裕もできる。
人員も減らせるかもしれない。

 

だったら来店前にアプリなどで注文してもらえばいい。
が、それだといたずらが発生しそうで困る。クレジットカード対応が必須か。
それか一度来店してもらってキャッシュカードにするか。それも微妙そうだが…。

 

ともかくアプリで事前注文してもらい、そこにボーナス還元をつける。
前回と同じ注文ならプラス1%とかたまご無料とか。
今日のおすすめを選んだ人にはドリンクプラスなど。

即時性があっても面白いかもしれない。グッズなどでも釣れるだろう。
フードコートや食堂など複数店舗をまたいだ場合、メリットはさらに高まるはず。
一つの店舗じゃシステム面の負担も大きいし、客にもメリットが少ないからだ。

 

なんて考えつつ、ご飯が来たので後でブログに書こうと思ったわけである。
世の中もっと便利になってくれると助かる。
今日の晩ごはんなににしようかなとなるべくは悩みたくないものだ。
自分の体の管理をシステムに任せたいと思うものの、そこまでよりかかるとマズイよなあと思ったりする。
でも自分が自分の体を管理できてないので、うーんどっちもどっちかと思ったり。

 

働いて幸せになるよりも幸せに働いたほうがいい?

 

働くということに左右されない幸せ

nakaken88.com
こちらの週4の勤務の良さを見てふと思った。
働いて幸せになるよりも幸せに働いたほうがよいのでは、と。
言葉の順序が逆なだけだが、意味が少し違う。


働いて幸せになるというのはブラック企業的なポリシーによく使われる。
今がキツくてもいつか報われる。だから今頑張ろう…と無限に続く。
いわゆるやりがい重視の仕事の論理だと思う。

 

もちろん働くのが楽しすぎるプロフェッショナルも多くいる。
だが世の中の大半はたくさん働くことは非常に苦痛であることが多い。
週5勤務でも大丈夫だという人もいるが、平日はなにもできないほど疲れる人も多い。

 

どれだけ働いても仕事では幸せになれない人だっている。
給料をもらい金曜夜にたまったアニメをお酒を飲みながら見ることが至福の人もいる。

 

それと反対なのが幸せに働くことだ。
幸せを前提としてはたらく人は幸福じゃないかと思う。
つまりすでに幸福ならば勝ちである。職場環境や働き方が幸福な人だ。

ストレスがたまりにくいとか、休みが取りやすい、人間関係が良いなど。
なんていうか幸せが仕事によって大きく左右されずに担保されている。
それはとっても幸せであり日本ではほぼ見ない気がする。

でも本来はそうあってほしいものだ。
仕事がきつくても、まず前提としてとりあえず幸福に過ごしたい。
そんなことをちらっと思った。世迷言と言われると少しさびしい。
たくさん働かなければ幸せになれない世の中というのはさびしくないだろうか。
そんなに甘い世の中ではないこともよくわかってはいるものの…。

勉強をしない人たちの持つ不寛容さをどうすればよいか

 

簡単な式しか受け入れられない人たち

例えば残業するほど生産性が上がるということに賛同する人はどれほどいるだろう?
一時的には生産性が上がると答える人はどれくらいだろう。
実際に上がったこともあるし、仕事をたくさんこなせると言う人もいるだろう。
だが生産性というのはたった一つのパラメータではないし、長期的に見る必要がある。

残業時間が増えれば体力が減り、集中できなくなっていく。ミスも増える。
健康も悪くなり幸福度も下がる。離職率も高くなる。
ブラック企業であると言われれば採用も難しくなる。全体的に不幸になるのだ。
ただこの理論は日本ではまだまだ非常に根強い。

なぜか?答えは小学生レベルの非常に簡単な理論だからだ。
仕事の生産性=人×働いた時間 というものすごくシンプルな計算式だ。
だが現実は非常に複雑で、こんな簡単な式が成立するならコンサルなんていらない。

 

こうしたシンプルで昭和的古い価値観が若い人の中にも受け入れられている時がある。
古い日本の価値観がなぜ再生産されるのだろうか?
第二次世界大戦から成長していない努力至上主義をたまに見かけることがある。
以前にも書いたが失敗の本質がまったく活かせてないのだ。

kayanomi.hatenablog.com

こうした戦術の例としては、夜陰を活用した駆逐艦の魚雷による漸減作戦や超人的ともいえる見張員の透視力(優秀なのは夜間八〇〇〇メートルの海上で軍艦の動いているのを識別できた)に頼る大艦隊の夜戦先制攻撃などが挙げられる。しかし、猛特訓による兵員の練度の極限までの追求は、必勝の信念という精神主義とあいまって軍事技術の軽視につながった。失敗の本質 二章 失敗の本質 P290

https://kayanomi.hatenablog.com/entry/2017/10/27/235900

古い価値観の再生産

例えば現代では多様性を持った社会が望ましいとされる。
自分にとってそれは非常に簡単に理解できることだ。
多様性のない社会の一例としては知的能力や健康に問題のある人を排斥することだ。
計算ができない人や自宅から外に出れない人は社会の役に立たないと切り捨てる。

けれど多様性を受け入れれば事故に遭い今までの働き方ができなくなった人を救える。
多様性を受け入れるということはセーフネットの拡充でもある。
働ける人の数も増えるので、日本全体の生産性もあげることができる。
自分や配偶者になにかあっても安心して働ける社会。
さまざまな働き方ができるなら再雇用の可能性も高まる。
人材の流動性が高まればブラック企業なども根絶できるかもしれない。

けれども若い人に古い価値観の再生産が起こっているのを見かける。
なぜこんなことが起きるのか。
やさしく書けないが、要するに勉強をしないと価値観が非常にシンプルになる。

こうしたシンプルで古い価値観を持つ人はあまり学ぶのが好きでないことが多い。
その価値観がいったい何をもたらしたのか、今後なにをもたらすのか考えない。
世界が簡単であればいいと信じているのだ。学ぶのが嫌だから。

非常に単純な理論で物事を理解したがるのである。考えることが嫌なのだ。
世界がシンプルで自分の考えが正しいことを望んでしまう。
例えば健康でない人や容姿の悪い人をすべて排除すれば完全な社会が生まれるとかだ。
一見正しそうに見えるが言っていることはナチスと変わらない。

今現在の多様性を積極的に受け入れる社会のほうが正しい。
間違いを受け入れたほうがいい。
そもそも人間という生き物自体が正しくもなんともない。完璧なんてどこにもない。

ただのヒステリックな潔癖集団が生まれるだけである。
そのうちエリートや血統主義が蔓延り、奴隷制も始まるだろう。
完全に中世の価値観に逆戻りである。

 

不寛容さを乗り越えるには

そんな単純な価値観が再生産されるのは結局、学ぶということが嫌いだからだろう。
その溝は非常に大きい。
勉強をしている人間たちにもそれぞれに断絶があるというのに。

世の中はおそらく勉強が好きでない、可能ならばやりたくない。そんな人が大勢だ。
より近代的な価値観では、この世界は複雑であると認める必要がある。
そして毎年価値観を更新する覚悟と学びが必要になる。
そうした努力ができる人が非常に少ないのだろう。学習コストも高い。

だが今の所文化が中世に逆戻りしていないところを見ると少しだけ安心できる。
ある程度義務教育で習う内容や啓蒙している人の言葉が伝わっているのではないか。
人間は学ぶことで文明を進歩させ、繁栄させてきた。
一人ひとりの学習水準が上がることで文化がより発展していく。
そうした地道な努力が不寛容さなどを徐々に根絶できるのではないかと思う。

 記事を書いている最中にちらっと見かけたのだが、こうした寛容のパラドックスに立ち向かうには個人個人の勉強の質、学習水準を上げるしかないのではないかと思う。

言葉の海で、心を編む その言葉を自分なりに受け取る

 

すぐには消化できないほどの濃さ

www.nhk.or.jp

プロフェッショナル 仕事の流儀 の辞書編纂者の回が一度見ただけでは足りず、
何度もまるで読み返さないと自分の意見を固められないぐらい濃かった。
一つ一つについて深く考えさせられた。
結局あまりまとまってはいないが、とりあえず書いたものを公開したいと思う。
しかし 言葉の海で、心を編む とは粋なタイトルだ。

 

面白かったのは時々言葉が主人公になるところだ。
言葉に対する仕事だからか、接し方が普通とは違うと思う。
整正美化について話していたとき、看板や言葉自体が生きて工場を見守っていたと話す。
”言葉は生きている”と体に馴染んでいるからこのように話せるのだろう。

 

言葉が生きているならば反対に死ぬこともある。それがいわゆる死語だろう。
辞書に載らない単語は死んでいるのか。
そんなことはないという姿勢が見えた気がする。まだ載っていない、ただそれだけ。
言葉に対する態度が非常に敏感なんだなと思わせる箇所ばかりだった。

 

辞書の存在意義

話の主題は辞書編纂なのだが、辞書はかなり売れ行きが落ち込んでいるらしい。
インターネットが普及して簡単に調べられるようになったせいでもあるだろう。
今の時代における辞書の存在意義とはないかまで問われている。

 

自分の本棚にも辞書は存在しない。お恥ずかしながら。
インターネットで辞書をまたいで一気に調べたほうが便利だからだ。
最近では電子辞書なんかもあるし、スマートフォンのアプリもあるだろう。
目には見えないけれども辞書というものにはお世話にはなっている。

だが一方でインターネットは便利だが危険もあるとも番組中で言及している。
ネット上での言葉狩りについてだ。
これはおそらく〇〇警察と呼ばれるもので言葉の誤用などを取り締まる人たちだ。
そうした自警団の根拠として使われがちな辞書の立場は悩み深いだろうなと思う。

 

だが辞書を編纂する立場としてどちらの味方もしない。
どちらも生きた言葉であるとして、それを説明するのが編纂者の矜持であるらしい。
肩を持つのはおそらく簡単だ。だがそれだけの威力と責任は大きい。
番組中でも幾度となく様々な人と真剣に議論を重ねる姿が映る。

言葉は本来危険なものであり、いつだって正しい気持ちを伝えられない可能性がある。
だから誤用などにも気をつけなければならない。
でも言葉も生きていて、それぞれに意味を持っている。時代によって変化する。
それらに対して生き死にを決めず、使う人達も喧嘩しないようにと見守っている。
そんなふうに見えた。

 

新しい言葉はなぜ生まれるのかを考える

番組中、面白いフレーズがあった。人はなぜ新しい言葉を生み出すのか?
その答えに「人とは違う考え方をしたいから」と答えていたのが非常に面白い。
少し閉鎖的なコミュニティが形成されるとそこだけの言葉が生まれやすい。
例えば部活動、バイト仲間、会社、SNSのゲーム友達など。

これはある意味仲間意識の強調だと思う。
隠語を使うことで共通の秘密を持ったように感じるのではないだろうか。
また同じ言葉を使うのはある意味ファッションにも似ている気がする。

学校、飲食店や軍隊には規律を持たせるため統一された衣装を用いる。
同様に言葉を統一して思想も含め、仲間意識をより強固にするのだろう。
ここらへんの話は勉強の哲学にも少し出ていた気がする。
組織内で逸脱した言葉遣いや思考を持っている人間ははじき出される。


では反対に自分自身で定義した言葉ばかりを使っていたらどうなるか。
これはキラキラネームが該当するだろう。
本来の言葉の読みや使い方を変えて自分だけの読みと意味をもたせる。
キラキラネームの問題は読めないし意味が伝わらないことだと思う。
言葉として成り立っているのだろうか?
これはおそらく言葉の持つ力が関係していると思う。


なぜキラキラネームを使うのか?
それは目立ちたい、たった一つのものを授けたいからではないか。
日本人口は少子化かつ人口減少により名前の重複も非常に減っていると思う。

だが現代はSNS、交通網の発展などにより人と接する機会が増えたように思える。
見かけ上の交流が増えたとき、凡庸な名前では埋もれると危惧したのかもしれない。

キラキラネームは言葉のファッションや芸術的な側面ではないだろうか。
言葉には実利的なきちんと意味を伝えるためのツールとして普段は使われる。
だが物語や詩など響きなどで情感を伝える感情的、芸術的側面もある。
名前の意味を最近はファッションのように捉える人が増えたのかもしれない。

 

おわりに

とまあ、辞書の役割から言葉の生き死に、言葉を人はなぜ選ぶのか。
そういった部分まで考えさせられた。正直二時間くらいの講義を受けた気分だ。
普段から言葉を使っているし文章を書いているから、真剣に受けとった。

けれども結局うまく受け止めきれていない気がする。
こういうのは原典が一番強いのでこの記事が下手だなーと思う人はぜひ観てほしい。
NHKのオンデマンドやUNEXTで視聴できる。