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かやのみ日記帳

アニメ、ゲームの感想や思想などを書きます!

ICOでゲームをやってて初めて心臓が止まった経験をした。

ゲーム

 

ゲームをやってて自分の心臓の音がトクン…と止まった瞬間を認知できた人はいるだろうか?もしかしたらホラーゲームでびっくりしすぎてしまった時にそういった経験がある人もいるかもしれない。例えば「青鬼」でタンスに隠れた後、青鬼に見つかってしまう瞬間に「うわああああ」となってしまうかもしれない。

 

だが、自分はホラーゲームで心臓が止まった経験はない。恐怖でパニックになったり心臓がバクバクするだけだ。止まるほどの衝撃を受けたことはない。心音に空白が生まれるような経験はなかった。

 

そんな自分の心臓を初めて止めたのは「ICO」だった。

 

とても雰囲気の良い、小さな男の子と少女が手をつないで遺跡を探検するような素敵な物語だ。だけど、心底恐怖を味わったのもこのゲームだった。大切なものが手から零れ落ちそうになる瞬間、冷や汗が一気にダラダラとでて、心臓が止まった経験をした。

ICO

ICO

 

 

ICOで味わう最大の恐怖

ICOのキャッチコピーは「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」だそうだ。とても素敵だ。基本的に主人公が少女の手を引っ張り、勇猛果敢に古城を脱出するというゲームになっている。ところどころ少女に対する少年の気遣いなどが見られて心が温まる。どちらもまだ大人ではないからたどたどしく、でも手を離さないで冒険する姿はどこか絵本のようで、それだけ感情移入がプレイヤーの中に膨らんでいく。プレイヤー自身がコントローラーの、おそらくR1ボタンだったと思うが、そのボタンを離したくなくなっていくのだ。

 

だが、探検には時折手を離さなければならない場面が存在する。そしてどこからか謎の黒いもやの人型が冒険を阻む。この黒いもやは、いつでもどこでもランダムに発生するようでたびたび困る羽目になる。戦闘で手間がかかったり、手を放していると黒い靄に少女が連れ去られてしまう。

 

少女が必死に抗う姿を画面端にとらえたとき、慌ててそちらに向かって助けにいかなくては!という気持ちになる。だが自分も邪魔が入っていたり、簡単にはたどりつけないところにいると、もうどっぷりと感情が入ってしまう。いそげいそげ、必ず助けるんだ!そういう気持ちになる。

 

さて、自分がどのように心臓が凍る経験をしたのか。それは少女を置いて別な場所に向かった時だ。PS2版でやっていたので、ちょっと画面のロードがあったと思う。そして黒い靄の敵もでないような安全そうな場所だったので、ちょっとぐらい遠くに出て先のステージのギミックを見ておくか…と思い進んでいた。少女を待たせるのはちょっと申し訳ない気もするけど、主人公しか先に行けない場所だったので仕方がなかった。だが、まさか敵が出るわけあるまい。ゲームシステム的にもロードを挟んでいるわけだから、そこで少女を襲う敵が出るなんていうのはありえないだろう。今までのゲームの経験や感覚から安心しきり、ただゲームクリアのことに没頭していた。画面外は描写されないというある種の"お約束"を信じていた。

 

そんなときだった。遺跡の中は本当に静かで水の音や風の音、そして主人公の足音だけが響いている空間。ときどきふっと力む声などが聞こえるだけ。それなのに、本当に小さな、でもはっきりとした音が聞こえた。少女の本当に小さな「キャッ」という悲鳴が…。そして悲鳴と同時に画面中央の主人公をクローズアップするカメラ。

 

自分の心臓もそこではっきりと止まるのを感じた。カメラが主人公にクローズアップして、悲鳴が聞こえる演出に心底震えた。もう一瞬で脳内が真っ白になる経験だった。主人公も心臓が止まったに違いない。あれほど遠い場所にいるはずの少女の悲鳴が微かに聞こえたのだから!間違いなく、悲鳴だ。敵だ。あいつらが、少女に危害を加えようとしているんだ…自分がうつつをぬかしている間に。少女は今一人で抗おうとしているんだ…。危険にさらしてしまった!戻らなければ!早く!早く!

 

もう、コントローラーを持つ手が汗でびっしょりになるほど恐怖した。たかがゲームのはずだ。ロードすればまた始められる。ほっといても十分間に合うはずだ。ゲーム的に大丈夫なことはわかっている。…それでも悲鳴が聞こえてしまった時、一刻も早く守らなければという気持ちに染められた。その瞬間はもはや主人公の心情そのもののように同化していた。

 

そしてなんとか間に合い、少女を助けることができ、もう自分でいったいいつから呼吸をしてなかったかと思うくらい長い溜息をついた…。よかったあ…。もー過保護といわれようがなんだろうが、二度と手を放したくないと思ってしまった。頼むから傍にいさせてほしい、危ないから…という気持ちだ。ここまでゲームにのめりこんだのは本当に初めてだった。それ以来なるべく目を離さないように気を配り、時々は離れつつも必ず少女を意識の中に入れて機敏に行動し、焦らず、ゲームクリアよりも(!)少女の安全を第一に行動するようになってしまった。

 

ゲームシステムが自分の感覚に溶け込む瞬間

ICOで味わったのは、ただゲームとして手をつないで攻略するという制約でしかないものが自分にとってなによりも大切なものに変わったという経験だ。それまでゲームで味わっていたのは爽快感だったり、コンプリートするという目的だったり、レベル上げだったりとしたが、ただ守りたいという一心でプレイしたのはICOだけだったと思う。それだけ上質な体験ができた。

 

最初は毎回手をつながないといけない面倒くささが嫌だった。少女はトロいし、それぐらい登れよ!気合で登れよ!とダンジョン攻略の足手まといにしか感じていなかった。けれど、次第になんだか愛着がわいてきて、ふと周りを見渡すと自然の描写がきれいだ。水も空気もきれいに見える。絵本のようなふわふわとした幻想的な世界。そこで手をつないでがんばる二人の姿にふと、気持ちの変化があった。二人を応援したいという気持ちだ。そうして少女が危機にさらされたとき、守らなければ!という感情に変化した。

 

ICOは見事なゲームだと思う。もしかするとプレイヤーの感情をどのように整えるかということを考えていたのかもしれない。プレイヤーに対してどのように感じてもらうか。そういったところどころに盛り込まれた親切のようなものに、どっぷり感じ入ることができたのかもしれない。

 

 

 

 

世の中にたえて桜のなかりせば。素直じゃない表現のいじらしさ。

読書

 お題「好きな短歌」

 記事を書くのに困ったのでお題スロットを回して出た「好きな短歌」について書きます。好きな短歌は何ですか?と聞かれて即答できる人はなかなかいないと思いますが、自分はコレ!と決めているので困りません。

 

ちなみに座右の銘は「起きて半畳 寝て一畳、天下取っても二合半」です。これを意識高い人に話すとしかめつらをされるので、回避用として「子供叱るな いつか来た道、老人笑うな いつか行く道」を装備しています。

 

桜に思いを馳せる

私が好きな短歌は「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」です。古今和歌集で詠んだ人は在原業平とのことです。

 

なぜ好きなのか。それはツンデレだからです。世の中に桜なんてなければいいのに!こんなにドキドキしなくて済むんだから!という意味ですから、かなりのツンデレです。もっと現代訳するならばべつに桜なんかなくったって寂しくないんだからね!ぐらいでしょうか。在原業平も素直じゃありませんね。

 

とまあ非常に俗っぽく言っているのは半分冗談です。こう話すと少しウケがいい。この短歌の魅力というのは、やはり直接の描写をしなかった奥ゆかしさにあるでしょう。何よりこの短歌の存在を知った後では桜を見る目がちょっとだけ変わる気がします。ああ、桜があるおかげでまた今度咲くのが楽しみなんだなあと。そして古今変わらずの桜の魅力を想わずにはいられません。

 

そろそろお花見の予定を立てたりするシーズンでしょうか。桜を見るときに古今の桜を詠んだ人々の心情を想ってみると、感慨深く楽しめるかもしれません。

 

かなりの偏食家な自分。ハマるとそれしか食べなくなる。

健康 お食事

 

外食が好きだ。だいたい昼ご飯は外に出る。あまり範囲は広くない。選択肢も狭い。

 

例えば気になる新メニューが出たとする。おいしい。値段も手ごろとなったら通い詰める。では何日ほど?…一ヵ月くらいは問題なく通えてしまう。毎日一食はそれで構わないというくらい食べてしまう。

 

食べ続ければ自分のモニタリングになるかも?

そんなに食べ続けて飽きないの?とよく聞かれる。

別に飽きるどころか、食べるたびに発見がある。例えおいしくない日があっても、自分の体調が悪いのかそれとも店の調理が悪かったのか考える。だいたいは自分の調子が悪い時だ。このように自分をモニタリングするため…というのは偏食家の言い訳としてはイイモノじゃないかと思う。

 

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この偏食がそんなに悪いわけじゃないさと言い訳するようになったのは上記の番組の影響だ…なんて言い訳をしてみる。

1日300もの原酒をテイスティングするチーフブレンダーは、自己管理も超厳格!

福與さん:この山崎の食堂では昼は天ぷらそばに決めてます!午後からのテイスティングがあることを考えると、その方がリズムもいつも通りですから。

日々の味覚を合わせるため、ここ3年間は昼食は天ぷらそばしか食べてないんだとか!
そんな高いプロ意識が、サントリーウイスキーを支えてるんです。

 

プロが自分の舌を整えるために、毎日決まったメニューを頼むということで平凡な自分もそれに乗っかろうというわけだ。…だめかなあ。

 

ともかくなかなか食い飽きない自分の性質は楽ちんで好きだ。一時期ココイチ福神漬けにハマったせいで通い詰めたことがある。一番の目的はカレーではなく福神漬けだった。とてもおいしかった…がさすがに迷惑な気がして最近は来店を控えている。

 

はなまるうどんにはまる

他に通い詰めたのは、はなまるうどんだ。あまりうどんが好きではなく、どちらかというと蕎麦派だ。それも十割蕎麦派。ごまとネギ、わさびが決め手。そんな自分が通い詰めるきっかけとなったのは小説家になろうのせいである。

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 そんな私が、当時の職場の仲間たちとともに東京へ行き、お通じが悪い我々の為の神の産物として、はなまるうどんを知りました。
 何がすごいって、麺の中にレタス一個分の食物繊維

 ハハッ! まっさか〜!

 人を疑うの当たり前な私達は笑いながらも、じゃあ食べてみようか、と軽い気持ちで入ったのがキッカケです。
 その日どうなったかと言いますと?
 それは、食事中の方によろしくないので割愛。
 要するに、お腹がデトックスされたんです!
 あんなに難産な私達のお腹が、うどんに救われたんです!

 

うっかり上記エッセイが幸せそうだったので、どれどれ自分も腸にいいんじゃないかね?と思って通い詰めてしまった。しかも小なら130円。安すぎる。そしておいしい。ちなみにそこまで腸の調子はよくはならなかった。でもおいしかったので通った。作者の宣伝にひっかかった気もするが、まあこういうのは乗せられたほうが楽しい。

 

はなまるうどんの思い出といえば、昔のテキストサイトでかけ(小)をひたすら食べるという企画をやっていた人がいた。かけ(小)を食べるために陸上競技場を走ってカロリーをなんとか消費しようとがんばったりしていた。今は探しても見つからないのは残念だ。なんとか見つけたいと思ってもサイト自体が消滅したのかもしれない。

 

ともかく、はなまるうどんはインターネットの影響でとても好きになったと言える。 

 

好きになるきっかけはだいたい他人の影響

だいたい自分の好きなものというのは人から勧められたものだ。もしくは他人がしていることが気になって自分もやってみようとか、試してみたいと思って始める。ココイチに通うようになったきっかけは、友人の福神漬けがカレーよりもうまいという発言からだ。はなまるうどんはエッセイがきっかけ。

 

もう一つ、好きなものとしてカツ丼がある。実は子供の頃はまったくもって好きじゃなかった。ハンバーグのほうが好みだったが、今ではカツ丼大好き人間である。

 

そのきっかけは刑事ドラマで「ほら食え」といって出てくるというテンプレ展開からである。出されたカツ丼をおいしく食べるシーンを見て、ふと思った。自分も役になりきって「うめえよぉ…うめえよぉ…」という感じで食べたらおいしいんじゃないかと

 

で、心の中で役を演じているつもりで食べたらおいしかったというわけだ。それから徐々に自分の舌が「これは自分の好きなものなのかも?」と慣れていったのかもしれない。食わず嫌いなんて言葉があるけれど、案外最初の一歩をだましだまし食べてみるとうまくいくことも…あるかもしれない。

 

健康に良さそうと思っても続けちゃダメ

とはいえ、やりすぎはやっぱり体に響く。一度大学生の頃にポカリスエットにハマったことがある。風邪をひいたときに飲むとめっちゃおいしいので、これさえ飲んでいれば健康なのでは?と思ったのだ。飲む点滴なんて言われてるし、じゃあ飲み続ければばっちり健康だろう!と思って、それしか飲まなかったことがある。夏の日の栄養補給に最適だろう!という考えだった。

 

で、やっぱり体調を崩した。たぶん10日以上15日未満で根をあげたと思う。なんだか妙に頭がすっごく痛いのだ。まったくもって意味が分からんと思っていたが、水分と糖分を大量摂取しすぎた影響と思われる。

 

飲む点滴とはいえ飲みすぎた点滴は害になることを身をもって勉強した。健康にいいからと言ってそれだけを追い求めても健康になれないのかもしれない。

 

 

 

 

「子供に小説は書けない」に対する反論。自分なりに「書く」ということに答えを出すこと。

小説 読書 精神論

 

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こういうものを見ると心が毒される。自分の中で弱っている部分に直接ダメージを食らうように感じる。自分もブログを書いているので、こういった批判は自分の中にある不安を増長させてしまう。

 

この記事を書くときにだって、この文章は読者の為になるのだろうか、誰かの心に響くのだろうか、金にもならないのに何故書き続けるのか、時間の無駄じゃないのか、読みにくくないか、批判されるんじゃないか、未熟すぎ…などなど。このような不安が入り混じっている中で上記のような批判を見ると「書きたい」という想いがメキメキと潰されていく。

 

こういった文章の主張は非常にエネルギーに満ちている。それも負のエネルギーだ。強烈に自分の影の部分を引きずり出す。そういうものだ。まず妄想の作文を小説とは言わないなんて書いてあるとドキッとする。自分にも当てはまっているんじゃないかと不安になる。

 

読書家で向上心をほんの少しでも持っているならば、そして批判は真摯に受け止めて改善していくという真っ当な精神を持っているならその主張を読み解こうとしてしまう。こうした時、負の文章を真っ向から受け止めようとしてダメージを負ってしまう。

 

このような主義主張が強く、自分の精神に少し悪影響をもたらすものを”ウイルス”と似てると感じる。悪い意味ではない。なぜならウイルスも自分の中に抗体を持つことでより強くなれるからである。ただ、それまでには発熱したり寝込んだり、苦しんだりする羽目になるわけだ。このような文章を自分で読み込んで対応しようとするのはワクチンを接種しようとしていると考えられるかもしれない。

 

子供に小説は書けないという批判は適切か

本題に入ろう。なぜ「子供に小説は書けない」というものを選んだか。この文章は特にランキングに入っているわけでもないし、そもそも感想欄を閉じて作者名すら隠しているので、非常に一方的に叩きつけるような攻撃的文章である。このような文章は読まなければいい。だがそれでも自分の糧としたいとか、どうしても気になって読んでしまった人に向けて少し元気づけたいという気持ちがある。

 

さて文章の中身について少しずつ書いていく。

それとも自立出来ないニートか ? いつまでも中二病か ?

社会経験も無く、宿題・課題さえこなせない弱虫がヒーロー物語を書いてるのか ? いい気なものだ。

親は、よほど心配しているだろう。

この子は社会人として自立出来るだろうかと。

この文章は非常に余計なお世話である。そう言ってしまえば簡単に済むが、どこか当てはまってしまうと辛い気持ちになるだろう。こういう感情にストレートにくるものに理論を振りかざしても心が納得できなきゃ辛い。

 

なによりもテメーこんなこと書きやがってオメーはどうなんだ!とファイティングポーズを取り出すと負けである。相手の土俵で戦おうとしてはいけない。相手を散々検索して作品を見てオメーだって書けてねえじゃんクソザコと言いたくなると思うが、それでもこの主張に対してなんら意味をなしてない、ということを心ではわかっているはずだ。だからむなしくなること請け合いである。書いた人間とその意見は別にしてあげないといけない。人格攻撃は双方に良い影響をもたらさない。

 

そうして人間の美点を見つけなさい。この世は生きるに値する事を伝えなさい。

現実社会で見かけたあの人は、辛い境遇でも困難に立ち向かっている。その人こそヒーローなのだ。そのような感動を伝えなさい。魔王がどうしたなどという作り話は、もう誰も求めていない。

小説らしい小説を書けるのは、スマホの通信費を自力で払える者だけなのだ。

子供に小説は書けない。

もうホント余計なお世話だバカヤローと言いたくなる気持ちは十分にあると思う。それでも解釈したくなるのも、真剣に小説を書きたいとかいい文章を書きたいと思っている体と思う。もしくは恐る恐る書いている不安な気持ちだからか。だからこのような主張でもダメージを食らう受け取り方をしてしまう。

 

こういうのは作者の根底が”素晴らしい人間”が”素晴らしい小説”を書くものだという美意識による主張だ。いわゆる”世間一般の褒められるべき正論”とかそういう類だ。この手の美しい正論というのは振りかざすと大変に心地がいい。そして相手を封殺できるマジックウェポンである。

 

大事なのは心

さて上記の余計なお世話に対しての自分の反論は、誰でも書く権利はあるよという当たり前のことだ。言論の自由は保障されてるしね。それはともかく、初心者は気後れしがちだ。どうも素晴らしいもの以外書いちゃいけないんじゃないかという気持ちになる。下手なものを公開するのは人の迷惑じゃないかと。

 

でも、自分から言わせてもらえば「書こう」という気持ちを持つことが素晴らしいと思う。この「書こう」と思った気持ちというのは人それぞれにある。みんな同じ「書こう」という気持ちではない。有名になりたい、人を楽しませたい、ただ自分の望みを実現したい…。この「書こう」という気持ちはいろいろ混ざっているので人それぞれ配合が違うと言ってもいい。

 

自分の願いや想いを他人に容易に否定されてはいけない。そういった他人の言葉を自分の心の内側にまで及ぼさせてはいけない。もちろん反省するなと言うわけじゃない。ただ、毒になる言葉を受け入れたときに、自分の内側にある「なぜ書くのか」ということが大事になると思う。

 

こういった他人の「こうあるべき」というのを受け入れ続けると精神を容易に病む羽目になる。それは今とは違う自分になれという命令でもある。自分が自分じゃなくなってしまえというのは自分の対する怒りにもなりかねない。

 

こういった辛辣そうな批判を受け入れたら、自分の中でゆっくりと何らかの結論が出せるよう戦って抗体を手に入れるしかない。自分なりの「なぜ書くのか?」という気持ちをしっかりと持つことができれば、こういった意見に対して揺らぐことは少なくなると思う。

 

「子供に小説は書けない」という意見に対しての自分の結論

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こちらのエッセイで小説家の人がどのような気持ちで書くのか気になったので実際に買って読んでみた。とてもよかったのは坂東太郎さんの小説を書き始めた動機。これが非常に詳しく述べられている。

最初の投稿から書籍化まで1ヵ月もたっていませんね。しかも30代で生まれて初めて書いた小説…執筆のきっかけは何だったのでしょうか?

坂東:(中略)

きっかけは激務で心身を病んだことです。あるとき車を運転していて「死のう」と思ってハンドルを切ったんです。冬の北海道だったので、雪がクッションになって死なずに済みましたが、病院に行ったら鬱病だと言われて会社を退職しました。それから関東の実家に帰って来て、ニートとして暮らしていました。

(中略)

「WEB小説にもかかわらずこんなにすごい作品がある」と驚きながら読み進めていき、最後には、号泣しました。

それでなんとなく、「自分も書いてみよう」と思い立ちました。時間はいくらでもありましたし、「物語を書く」ことは、いつかやってみたいことの一つでした。

(読者の心をつかむ WEB小説ヒットの方程式 P179,180 より引用)

こうして生まれたのが「10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた」である。作者が書くことでストレス解消となったと述べている。

 

このように逆境に立たされた人や心身に著しいダメージを負った人でも、その気持ちを昇華して創作することで救われる人がいる。こうしなきゃいけないと人に批判されることから「書く」ということは自由なんだと思う。どんな立場でも書きたいと思ったら書いていいと思う。

 

大事なのは書きたいという気持ちを持ち続けて、それでいて書く人が「書く」ということに救われていることじゃないかと思う。

 

 

「落ち着きがない!」って怒られてたけど、「落ち着く」ってなに?

健康 精神論 勉強

 

「落ち着きがない」という意味が分からなかった

子供の頃は親からよく「落ち着きがない!」と大声で叱られていた。通算すると100回は言われていたんじゃないかと思う。どうにも落ち着きがない子供だったようだ。自分で実感はない。だいたいのところ大人になった今でも落ち着いた人間だとは思っていないからだ。今も昔も自分は落ち着きがないのだと思う。

 

「落ち着きがない!」と叱られるたびに思っていたのは、「落ち着く」ってなんじゃい、ということだった。どういう状態が落ち着いていると言われるのか、学習できていなかった。まったくもってわからなかったのだ。自分にとって「落ち着く」という概念が存在しなかった。手足をじたばたする行動が落ち着きないと言われるならば、動かさないことが落ち着いた状態なのか。よくわからなかったし、なによりそんなこと我慢できなかった。おそらく両手両足を縛っても芋虫のようにずっともがき続けることだろう。子供の手足を言葉で縛ることなんかできるもんか。

 

大人になってから実行しているのは、「落ち着いている」と見做される人間の真似だ。どういった行動をとることで世間からはみ出さないかの研究成果といってもいい。例えば廊下の角を曲がるときはわざと外側いっぱいを通るとかである。こうすることで自分にとっての最短距離を通って、他人とぶつかって「落ち着きがない!」と怒られる事故を防ぐことができる。

 

普通に立っている時や人が話している時は自分の姿勢に思いを馳せたり、ゴッドファザーの場面のようにトレンチコートを着て普通を装いつつ警戒しているという役を想像したりする。「落ち着いている人」をシミュレーションすることで落ち着きのない自分を制御する。自分の空いているリソースを何かに使うことで他のことに気をとられないように気を付けている。

 

じっとしているフリ、集中しているフリ

子供にとっての一番の鬼門はじっとしていることだろう。確か小学校の入学式だったと思うが、自分が一番落ち着いてなくて保護者として恥をかいたと母親から折檻された覚えがある。本当に悔しくて泣いた。他の子供たちだって大なり小なり動いていたはずなのに。なぜ自分だけが…と思っても結局母親の主観が正義となってしまう。じっとするということが学校では多く求められる。しかし大体の時に失敗してきた。そのたびに「落ち着きがない」という評価ばかりつけられてきて悔しかった。時には笑われたり呆れられたりいじめの対象にもなった。まったくもって困った。

 

じっとするというのは難しい。落ち着くということはわからない。こんな自分が編み出した卑怯技というのは、しょせん他人からの見てくれが落ち着いているように見えればいいやということである。ばれなきゃいい。じっとしているように見えて他のことに集中したり、ゲームについて空想したり、ひそかに手足を動かしてみたり、実は空気椅子に挑戦して筋トレを試みようとしたり、校長の咳払いが何回かを数えたり。

 

つまり落ち着いている”ように見える”には体を動かさず真剣そうな表情をしているだけでいいということがわかってから楽になった。結局自分は落ち着くということができないと諦めることにした。というか「何も動かさず」「何も考えるな」というのは瞑想の極致である。そんなもん子供にできるわけがないし、忍耐強くもなく、おもしろくもなんともない。それを子供にさせようと強制するのは頭のいかれたカルトぐらいだろう。

 

おいおい、人の話に集中しろよと思われるかもしれないが、そんなこと大の苦手である。気が付くと別なことに気をとられたり、前を見てなかったりする。しょうがないので「前を見て真剣そうにしているフリ我慢大会」を自分で主催するくらいしかできない。そもそも一つのことに集中しなさい!というのは自分にとって無理な話だった。

 

勉強机に向かって勉強するというのはあまりにも難問だった。苦行でしかない。それでも高校受験、大学受験では必死に机に向かう時間を増やさなければならない。学校で自習したり、塾で自習するというのも選択肢としてあったが、自分にはなじまなかった。結局注意は周囲の大きな雑音で簡単にそれてしまうし、周囲に人間が居るというストレスに耐えきれそうになかった。家でやるしかないものの、簡単に机から脱走してしまう。

 

そんな自分が編み出したのは、椅子に自分を縛り付けることだった。中学では柔道をやっていたので、帯がある。せっかくなので柔道着も着て椅子に自分を縛り付けて勉強をすることにするしかなかった。部屋は寒いので、身が引き締まるし人生一度の勝負だから気合が入る。自分の注意散漫を舐めてはいけないとわかっていた。椅子は回転する椅子だと遊んでしまうし、キャスターがついているだけでも遊んでしまう。地味な動かない椅子に取り換えた。

 

さて、この状況を客観的にみてみよう。寒い中、柔道着を身に着け椅子に自分を縛り付けられつつ必死に勉強に挑む姿。もはや拷問にしか見えない状態である。母親が心配になって身に来た時、あまりの姿に「私が虐待しているようにしか見えないからやめて」と言ったのがめちゃくちゃ面白かったのを覚えている。でもやめなかった。そうでもしないと体がどこかに行ってしまうのを知っていたから。とはいいつつもトイレに行くために帯を外してしまったせいでなかなか戻れなくなったりして、そこまで効果が高いわけではなかったのが悲しいところだ。

 

しまいには壁のほうに机をわざわざ寄せて、背面に本棚を置き、側面には炬燵の天板を挟んで本当に囲いを作って逃げ出さないような工夫をしなければならなかった。ここまでくると猫対策みたいな気分になってくる自分が本当に理性のある存在か怪しくなってしまった。そうでもしない限り、自分で決めた勉強時間を守れないというのは本当に勉強嫌いだなあと少し苦笑いしていたが。

 

ともかくここまでひーこらして高校、大学受験をなんとか乗り切った。もう二度と自分で自分を監禁するような真似はしたくないものだ。そう思っていたのだが、結局卒業論文が間に合わずに研究室に自分を監禁する羽目になったので、二度あることは三度あったということだった。つくづく自分の性分が恨めしい。自己管理ができてない、落ち着きがない奴というレッテルは剥がせそうにもない。

 

おわりに

結局のところ「落ち着いている状態」というのは他人から見てみると「身体の動きが少ない」「周囲との接触事故を起こさない」「話す言葉はゆっくり」「相手をじっとみつめる」「反応に対して穏やかにほほえむ、ワンテンポ遅れる」くらいでしかない。後は「物忘れが少ない」、「どんなことが起きてもおだやか、冷静」なども挙げられるが、そこまで守らなくても「落ち着きのない人」という評価は回避できることがわかった。

 

貧乏ゆすりをしていたり、頻繁に姿勢を変えたり、しきりに髪の毛をいじったり、頬杖を突いたりしている人間は落ち着きがない人とみなされやすい。こういった身体的反応というのは心理学的に焦っているとか余裕がない状況、追い詰められている時に現れる。逆に言えば焦っていてもこれらの反応が出ることを知っていれば、ある程度は抑えられる。いわゆるポーカーフェイスの練習だ。化かしあいである。

 

大人になって「落ち着きがある」ように見える人間になるために、「落ち着いた人間」を観察して特徴を真似して…というのはなんだかサイコパスのようなホラーチックに聞こえないだろうか?小説などのシリアルキラーの設定では親に愛されなかった子供が愛されたくて世間をどん底に陥れる凶行に走るというのがありがちだ。そして現実でもしつけの歪みがそういった悲劇を起こすこともある。

 

落ち着きがない人間を無理やり落ち着けと抑えると、どこか性格が歪むかもしれない。子供の本来持っている無邪気さ、感情を否定することで大人になっても少しほの暗い傷が残ることになる。ただ「落ち着け!」と頭ごなしに叱るのではなく、別な解決策やいっしょになって考えようと諭すようなことが大切ではないかなと思う。