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かやのみ日記帳

読書の感想や思想を毎日書いています!

「なぜ人を殺してはいけないのか」の質問に真面目に考えてた子供時代と今

 

哲学に憧れて確かめたくなる年頃

中学校、高校になると反抗期を迎えたり論理的な思考力がついてくるからか、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問に対してどう考えるか?というのが流行になったりする。休み時間中にそれぞれの考えを話し、議論する。まあ哲学をかじって大人のように考えたくなる、背伸びしたくなる年頃だったのかもしれない。

もちろん哲学をちゃんと勉強している子もいたりして、確かに大人の世界の仲間入りを始めるころだ。もしかすると大人の世界に足を踏み入れたからこそ、こういった問題に取り組む必要があるのかもしれない。いつのまにか自分たちの中に取り込まれた常識や考え方をいったん取り出して、新しく学んだツールによって確かめてみようとする行為なのかもしれない。

 

自分もかなり真面目に考えていて、わりと苦しんだ覚えがある。まあ中二病まっさかりだったからちょっと思い出すのはつらい。こういった問題を子供の立場から大人に聞いてみると軽くあしらわれたり、むっとされたりする。大人はこういった問題に真面目に取り組んでいないんだ、なんて不真面目なんだとか考えていた。

自分が当時出していた結論は「別に殺してもいい、だって人を縛ることなんてできない」だった。「人を殺してはいけない」という考え方は人間の考えが生み出したものであるため、社会から切り離された山奥で生活して常識をまったく知らない人間がいたとしたら、「人を殺してはいけない」という考えには至らないはずだからだ。

 

「正義」の流行

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 こういうことを考えていたのだけれど、数年前にマイケルサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」が話題になった。ハーバード白熱講義という題でNHKでも放送され、「正義」という非常にカッコイイ題材に注目が集まった。

最初の講義でサンデル教授は暴走機関車のたとえ話をする。列車が暴走していてそのまま見ていたら線路で作業をしていた5人が死ぬ。だが自分の近くに切り替えレバーがあり、線路を切り替えると5人が助かる代わりに別な1人が死ぬ。さて、あなたはどうするのが「正しい」のか。

様々な行動が考えられ、ここから「正しい」行為というのは非常に曖昧なものだと感じられる。何もしないという行動も正しい。切り替えるのも正しいかもしれない。どちらも間違いかもしれない。こういった対立するジレンマを過去の哲学者はどのように捉えたか交えて解説する。

ちなみに好きなエピソードは「嘘」「偽り」を言うのは悪だと考える哲学者が、警察に追われている大親友を匿っているとき、警察に所在を問われたら「正しい」答えを返すべきか?というもの。「見ていません」と言ったら嘘になってしまうので、「東に行ったかもしれません」ぐらいのお茶濁しでがんばるしかないらしい。なるべく回答しないようにごまかすことが必要なようだ。

 

ともあれ、サンデル教授の講義を見てまたしても「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に深く考えさせられることになったわけだ。ちょっと大人になった自分は「回答不能、場合による、難しい」という答えに変化していった。様々なケースが考えられるし、それを説明できるほどの自分の能力がないと自覚して潔く白旗を立てることにした。そうすることで自分の悩みを置いて、もう少し別なことに時間を割くことにしたのだった。無理やりに自分を納得させる回答が必要ではないと気付いたことは、少し大人になったのかもしれない。

 

自分の感情を受け入れられるようになった

さて、更に大人になった自分にとって「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問への答えはまた変わったものになった。今は「悲しいからだよ」というまさかの感情論である。中学、高校のころの自分からすると唾を吐かれそうな回答だ。こういった質問に感情的に答えることは負け、論理的に説明するべきだと考えていた。

けれども大人になって思うのは人間とは、感情と理性がある動物だということ。これらは決して切り離したりできないし、無視することもできない両方大切にされるべき要素なのだと。こうした考えを持った時、ある質問に対しても「理論的に正しいか」という視点と「感情的に受け入れられるか」という視点を持つことができるようになった。

理論的に正しければすべていいわけではないし、感情的になることがいいことでもない。ただ、それらはそこに存在するだけだ。どちらも正しいし、どちらも正しくない時もある。ただしそれらを決してなかったことにすることはできないだけだ。これは非常に難しく、頭が固いうちには受け入れられない事なんだと思う。

 

 

おわりに

思うに子供の頃の自分というのは白黒つけたがっていた。何事もきちんと説明されるべきだと思っていた。理論的に正しいことは全て正しいと思っていた。はっきりとしないことが嫌だったということもある。何事もわかりやすくあってほしいと願っていた。だから「人を殺してはいけない」という質問に対してもきちんとした回答を欲しがった。

けれども大人になってもっと緩く考えられるようになった。そしてそれが悪いことではない事にも。一般的に悪いものとしたうえで法律的観点や人権の観点、そこから更に自分自身で考えていること、そして自分の感情などのように様々な考えと答えを持っていることがある意味普通なのではないか。すぐには答えられないことも、答えを出さなくてもよいことだってある。