かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

父があやしい健康グッズにハマりかけたとき、説得した話。

 

父があやしい健康グッズにハマりかけた

syakkin-dama.hatenablog.com

上記は若者がどうやら詐欺にひっかかった挙句、他の人にも儲かるからやろうと勧誘して目を覚ませと諭されたという感じだ。読んでてああ、自分にとって結構大事なテーマだなと思ったので、一つ自分の気持ちを書かせてもらいたい。

 

中学か高校の頃、父が親しい友人から怪しげな健康グッズを買った。お値段お手頃3000円程度。どうも父親は気に入ったらしくしきりに効能をうたっている。よくわからない金属が生体磁気に作用して~といった話だ。どうやらグレードの高いグッズもあるらしく、試しに買ってつけてみてと誘われたらしい。父はこれから毎日それをつけて生活するつもりらしかった。

冗談じゃない。そんなこと、絶対に許せなかった。

話を聞けば聞くほど、どんどん悲しくて落ち込んでしまった。どうして父はこんなものに喜んでしまっているんだろう。そんなものに興味を持ってほしくなかった。父はこんなもの鼻で笑ったり、もしくは効能に対して科学的根拠を冷静に確かめるタイプのはずだ。

思うに友人だから情とかそういったものに動かされたんだろう。友人の頼みとかオススメなんかを素直に受け入れるのはいいことなのかもしれない。大人同士の付き合いというのもあるだろう。でも、自分が抱いている父親のイメージからは絶対に受け入れられない事だった。

 

尊敬する”せんせい”だった父

自分に科学的なアプローチの大切さを教え込んだのは父だ。どんなことも必ず疑い、そして自分で説明できるようにすること。疑問に思ったことは自分できちんと調べること。疑問に対してさらに疑問を見つけて、知識をより深く深く掘り続けること。これを口酸っぱく教えたのは父だ。

そんな父が大好きだったし、自分にとっての先生として、教育者として本当に尊敬していた。父はきちんと世の中のなぜ?に毎回答えてくれた。わからないことがあって質問したら必ず長い時間がかかっても答えを見つけ出して教えてくれた。そうしてこうやって見つけるんだぞ、長い時間かかったってかまわないからと探し方を教えてくれた。

もちろん怪しげなものを見破る方法だって教えてくれた。自分の知識の中でわからない単語やうまく呑み込めてないもの、自分で説明できないことを決してわかったつもりになるな、と。そういった間違った知識を覚え続けることも危険だし、それをひとに伝えてしまえば恥をかくぞと警告してくれた。

 

そんな父が、その原則をあろうことか破っているのだ。自分の子どもに大切なことを教えてくれたのに…がっかりだったし、悲しかった。大人は子供に大切なことを教えてくれたり、間違ったことを怒ったり叱ったりするけれど、でもその大切なことや間違ったことを大人がしているのを見たときの悲しさはどんなものより大きいと思う。

子供に大切なことを教えている時、もしかすると大切な約束を交わしているのかもしれない。お互い大切なことだってわかってるから一緒に守ろうね、みたいなことを。そういった約束をなんとなく思っていて、なんだか裏切られたような気持ちになってしまう。

 

父から教えてもらったことを大切に、父と戦う

ともかく科学の何たるかを教えてくれた父が、どうしようもないニセ科学にハマりそうなのだ。というか第一ステップを踏み出してしまい、喜んでこちらに羨ましいだろ?と言ってる始末である。なんでこんなことになってしまったのかな、と思いつつ父に怒りもあったので戦うことにした。この戦いは絶対に譲れなかった。だって父に教えられたことを自分が大切にしたいから。その気持ちをなかったことには絶対にできなかった。

生体磁気がどーたらなんて話はたとえ中学生でもわかる。そんな体に影響が出るほどの磁器が出てたら家電に影響が出るでしょと。というかそんなに磁気がよければネオジム磁石でも10個100円で売ってるわけだし、大量に巻き付ければよろしい。そのころ流行っていたパナウェーブ的なアレになるはずだ。そのうち田舎の案山子が巻いてるカラス除けのCDみたいになるんじゃないと嘲笑ってあげたりもした。

 

まあ父は大変激怒なさった。控えめに言って何年も見ていないほどの大激怒だった。そもそもつけてもないのに批判するのはおかしい、俺の友人がおかしいというのか。そんな人情的な話や経験の話を持ち出してきた。その人に騙されている、カモにされているんじゃないかと言うと、父はカンカンだった。逆に自分は本当にここまでいわなきゃわからないなんてと泣けてきた。

 

父がカモとして見られることは絶対に許せなかった

人間は身に着けているものをよく見る。営業さんや人を見る目が鋭い人は靴を見たり、着ているスーツのブランドや腕時計を見る。高くて手入れがされている靴で、腕時計が高ければ上客だろう。逆に靴が手入れされておらず、擦り減って汚くスーツも色あせているならばお金がないんだろうと値踏みされるだろう。

そうした際に怪しげな健康グッズを身に着けていたら間違いなく絶好のカモにしか見えないはずだ。よく家の玄関に怪しげなマークを書く連中がいる。

matome.naver.jp

例として引用するとこんな感じだ。

玄関にある記号(マーキング)一覧
◎・・・・・・二重マル(契約成立)
AP・・・・・アポあり(見込みあり)
☆・・・・・・押せば買う
×・・・・・・断られた
××・・・・2回断られた
K・・・・・・キック(訪問販売用語で「玄関キック」)ドアも開けられず断られた
ケ・・・・・・家の住人と「ケンカ」した

訪問販売などでこいつは話を聞く客なのか、騙されやすいカモかを同業に知らせる秘密の暗号を残していくのだ。これと健康グッズもどきが果たす役割は似ていると思った。そういったグッズを身に着けていて、それをどんなグレードかを理解しておけば手際よく商売が進むだろう。そういった危険性がそこにあるとは言えないだろうか。

 

大切な人を止める覚悟

もちろん過剰な反応かもしれないのだけれど、ただ尊敬する父がそういった目で見られることを想像するのが本当に嫌だった。自分の父親が、尊敬する大好きな父親が騙されやすいカモとして見られるなんて耐えられなかった。

でも人情や自分が惚れ込んでいるものを外野が止めることなんてほとんどできやしない。本人たちが正義だと思っていることを外野が間違ってると言っても受け入れてはくれないのだ。ここらへんは以前にちょっと書いたネトゲ廃人の話に似ている。

kayanomi.hatenablog.com

 マギョ ◆pBNUgPDhy6 04/03/09 23:48
(中略)

もしくは、歌手になりたい!とか、~~を探しに行きたい!とか。
じゃあ、どうして私はネトゲがやりたいから一年引きこもる」という彼女の考えに こんなにも嫌悪感もあらわにして反発するんでしょうか。

……思うに、「私から見てどう考えても幸せではないから」でしょうか。
これは非常に傲慢な考え方だと自覚しています。

仕事を辞めて、お母さんが隣で泣いていて、真っ暗な部屋で、 一日中画面を見ながら空想の世界に浸る。
私から見て、どう考えてもこれは「間違っている」と感じるのです。

彼女にはこれが幸せの極地なのだとしても、
私はこれを幸せとは思わない。だから無理矢理にでも壊す。そして連れ出す。
傲慢ですね。そしてこれは「正義」でも「正解」でもないのでしょう。
私一人の我侭なのですから。

 だから最後の部分、こうやってハマってしまったり自分が正しいと思って進んでいく人々を止めることって、自分にとってそれがワガママだってわかってても止めてやるという覚悟がいるのだと思う。例え修復できないような傷がつこうとも、それでも最後に一度正面からぶつかり合って戦う覚悟が必要なんだと。

 

自分にとって肉親だったり、大切な友人だったり。本当はこういったことにハマってしまった人間は取り戻せないし、関わればかかわった分だけ自分の時間が削られ不幸になる。だからそっと見送ることが一番”正しい”。けれど、それでも止めたいということはワガママだから。だから心を最後に伝えるしかないと思っている。その人にとって自分がどれくらい大事か、とかその人の為を思って言えることを言う。きっとその人が好きな分だけスッキリするまでやってみて、それでもって駄目だったら、それでも自分が好きだった分だけやりきったと思えるのかもしれない。

 

そうやって自分が父に教えてもらった大切なことだとか、父にそんなことをしてほしくないってことを伝えているとなんだか涙が出てきてしまって困った。泣くつもりなんてちっともなかったのだけれど、ちょっと父が老いてしまったのかなとか思ったりして、大切に思ってるからこそ言葉にならなくなってきた。そんな子供を見て、父は黙りこくって、その健康グッズを見ることは二度となかった。それから何も聞いてないし、聞くつもりもないのだけれど、少し父に気持ちが伝わったのなら良かったと思う。ホントにたかがエセ健康グッズごときになんでここまで…という感じがするかもしれないけれど、でも父との関係や思い出を振り返ってちゃんと思いを伝えるきっかけにはなったと思う。

 

おわりに

こうして思い出を振り返って思うことは、あまり関係がない人が怪しい宗教とか勧誘とかをしてきた場合よっぽど親切だったりしない限り教えてくれる人はいないだろうなということ。だからきちんと忠告して反対してくれる人がいるってことは本当に貴重なはずだ。大人になると自分で自分のことをしっかりと見つめてあげないと誰も指摘してくれない。だって大切な人じゃない限り誰も積極的に関わってくれないから。だから大切な人を止めるときは本当に覚悟をもって言ってきてくれるってことを汲み取ることも大切だし、あまり関わりがない人から忠告されることも貴重なことだと思う。