すべてが不安だらけだった思春期
自分が明確に思春期だったなあと思えるのは中学から高校にかけてだったと思う。そのころから読書に目覚め、いろんな本を読み始めた。もしかすると本を読み始めたから思春期が訪れたのかもしれない。ともかくとしていろんな不安とコンプレックスとストレスなどに見舞われた思春期だったと思う。
思い出してみると一番不安だったことは「知らない/わからない」ということだったのかもしれない。自分の将来はいったい何になれるんだろうか?どんな仕事があるのか?今のままで大丈夫なのか?何を勉強したらいいのか?どんな生活をしたらいいのか?今のうちにやっておいたほうがいいことはないか…?
こんな風に毎日が憂鬱で、刻一刻と大人になる時間が近づくのが怖かったように思う。何に対しても不安だったからそのうち生とか死とかについても悩んでは落ち込んでいたようにも思う。あらゆることが空回りして、それでもスタミナがあるからあちこち手を出してなおさら不安に駆られていた。
そう書いてみると、やっぱり不安だからいろんなことを教えてくれる本を読み始めたのかもしれない。ともかく本はいろんなことを教えてくれるものだと知った。お金の稼ぎ方についても書いてあるし、将来の仕事はどんなふうに選べばいいのかをアドバイスする本だってある。生と死について悩む思春期の子ども向けの本だってあった。
本のいいとこ、悪いとこ
本にはいいところと悪いところがあると思っていて、いいところはたくさんあることである。玉石混合だが、欲しければ様々な情報をまとめて得ることができる。悪いところは自分がその気になれば自分にとって都合のよい情報ばっかりになってしまうということだ。読書そのものに対する警告はなにもないに等しいと思う。
まともな良識のある思春期の子供に対する将来のアドバイスは「なんとかなる/時間が解決する」である。…大人になってみればそうだよねと納得できるが、子どもの自分にとっては「大人はテキトーだ、ふざけるな!こっちは死ぬほど本気で悩んでいるんだぞ!」である。死ぬほど、というあたりが思春期のアレである。
だから思春期の自分はこういった柔らかいアドバイスを素直に受け取れなかった。今の自分でなんとかできないことが我慢ならなかった。自分の不安を直ちに取り除けないなんて悪夢でしかない。時がたつまで我慢する、解決できないかもしれないのに…。
過激派へ縋る
そうして自分にとって役に立たないと思った本はすぐに読み捨て、自分の為になるであろう本を探し求めた。で、そういった本も実はあるにはあった。著者の意見が鋭いものだとか、時には怖がらせるような内容などもあった。つまりは過激な本を求めてしまっていたのである。
自分の望む解答が一般の範疇にない、というか一般的な解答は間違っていると思うのなら少数の過激派に向いてしまうのも無理はない。一時期過激なことばかり書いてある本を読んでいたことがある。とはいえ反社会的とか宗教的なものじゃなく、教育ママパパが大好きそうな勉強至上主義的な本だ。
そういった正義大好き的な本を読んでいると自分があまりにも惨めに思えてならなかったし同級生がどうして元気そうなのか信じがたくも感じたりした。みんな本当に真剣に悩んでいるのか、もしくは生まれながらにして能力の違いがあるのか。そんな風に鬱々と過ごしていた。
著者信仰、読書信仰からの解放
そんな自分に転機が訪れた。たまたまちょっと痛い小説モドキを読む機会があったのだ。そして難しい中二病ワードを見つけては本気で「何が書いてあるのかさっぱりわからないけど、これは相当頭のいい人が書いたに違いない…」と真剣に読んでは首をかしげていた。調べて会話文を見てもまったくもってわけがわからない。この登場人物たちはいったいなぜこんな会話をしているのだ?
が、読み終わった三日後くらいにお風呂に入っていてふと気づいて大笑いしてしまった。そっか、自分が読んでたのはただの中二病小説じゃんと。そこで初めて著者信仰が解けた。著者は絶対で頭がいい存在だと無意識に思っていたのだが、なんてことはない。普通の人だって小説ぐらい書いてもまったくおかしくないのだ。
そう思えるようになって初めて読書に対する信仰が薄れていった。今まで自分の不安というものは本から得ることでしか解決できないと思っていた。それをやめたのだ。不安なこと、心配なことは先生とか信頼できる人に話してみてもいいのだ。そのすっごい一般常識に気づけて良かったと思う。ホント手遅れになる前でよかった。
当時の自分への解答
なので当時の自分への不安に対する適切な解答としては、本にばかり答えを求めすぎず、心配や不安という気持ちそのものを信頼できる誰かに素直に共有すること、という感じだろう。不安に思う気持ちは決して恥ではないし、誰しも持ってしまうものだから。
不安に感じるということは将来を考え始めたという成長であり褒められるべきだ。で、大人はそういった不安などをまったく漏らさないもの…と思うのは間違いで、人間いつでもだれでも不安とか心配な気持ちを一人で抱えすぎると爆発する。上手に息抜きしたり愚痴ったりすることも大切なのだ。自分が急いで完璧になる必要なんてないし、そもそも人間は誰しもいつまでたっても完璧になんかなれないのだ。
大人は完璧そうに見えて余裕があって自分とはまったく違う存在だと思ってしまうかもしれないけど、大人になった自分から言わせてもらうとまったくそんなことはない。いつだって不安だし心配もある。けれど不安だったり心配なら誰かに相談したりするし、愚痴だって言うし、ストレス解消もする。そういった対処に慣れてくるだけで、子どもの頃から不安や心配の大きさや質は変わっていないはずだ。ただ扱い方がちょっと違うだけなんだと思う。