特定個人に期待をかけすぎない
自分は一度教えたことを何度も聞かれても別に構わないと思っている。特にイライラもしない。メモを取ってもらわなくても構わない。それは教えられる側の問題じゃなく、全体の問題として考えるからだ。
どういうことかというと、教えられる側の努力を一切期待しないというスタンスである。もっと大きく言うと人間というものに期待をするほうが間違っているんじゃないか。そういう風に思っている。
ただ人間を信用しないという意味ではない。人間はそこまで賢くもなく、真面目でもなく、やる気や根性もそもそも存在しない、不完全でまったく完璧でない生物として扱うということだ。だからこそ機械で補助したり、メモとか紙とかに保存し、仕組みやシステム、習慣、環境、周囲との協力でカバーしていく。
どこかで一度目にしてちょっとショックだったのだけれど、欧米ではガンガン簡単な質問をしていい風土があるとか。それは悩んでいる時間がもったいないし、わかる人に聞けばいいという当たり前が浸透しているのだとか。質問される側が適切に時間を配分すればいいし、何度も聞かれて面倒なら自分で紙にでも書いて渡せばいいし、別な人に聞いてもらえばいい。
また一つ例として日本人がお客様との打ち合わせの資料作りなどに何時間もかけるのに欧米では既存のネットの資料のリンクなどを利用して最小限にするとか。なんていうかあるものは使えばいいし、わかるものに頼ればいいみたいな精神だ。個人個人が無駄に努力をしないシステムとも言えるような。
根性や努力という曖昧なものに頼るシステム
ちょっと的外れな例だったかもしれないが、要するに日本人はわりと個人個人の努力とか根性だとか能力に期待をかけすぎなんじゃないだろうかということだ。教えられる側が努力して、なるべく聞かないように”自発的に”勉強する。メモをする、記憶する。そして仕事を一人でどんどん進められるようにする。
なるべく教える側に負担にならないように配慮するのが美徳とされる。それに乗っかるように教える側は一度教えて二度教えるのは時間の無駄と説く。メモすればいいとか、努力に任せるし、仕事はやる気があれば覚えると。時間外でも自分で本を買って読んで勉強する人が褒められる。
けれどこれは個人を信じすぎているというか、個人の能力依存の組織になりがちじゃないだろうか。個人個人が仕事を完ぺきにこなせば組織が上手く回ると信じる形式である。仕事が上手くいかない、組織が上手くいかないのは人の責任であるとする。
失敗の本質に似ていないだろうか?

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この理論は失敗の本質でも出てくる日本独特の精神構造なんじゃないかと思う。じゃあ欧米はどういう構造になっているかと言うとシステムの改善をしていく。個人の問題に矮小化するのではなく、システム的な問題として捉えて改善を促していく。
例えばトイレの掃除が行き届いていない時、日本的に考えるならば新入社員とか各社員の清潔意識が足りていないと叱りつけ、部長などにトイレ清掃目標などを守らせるよう通達を出し見当違いに現場が相当努力と苦痛を強いられると思う。
欧米式で言うとそもそもトイレの掃除が行き届かないのはなぜなのか?設置数が足りていないのか、場所が悪いのか、汚したくなる原因があるのか?環境のせいなのか?いつ汚れるのか…。
個人が必ず守るとか個人個人が高潔であれば汚れないと考えるのではなく、そもそも特定の人間に限定せず、不特定の人間でもきっと汚してしまう原因があるはずだと捉える考え方だ。だから失敗を個人に対して極端に責めることはしないように思う。
それは本当に特定個人の問題か?
同じように教えられる側が何度も何度も聞いてくるということは、つまり何かシステム的な問題が起きている可能性があるのだ。そしてそれを教えられる”特定個人の努力不足”に矮小化しても問題は解決しない。本質的なシステムの間違いを正す機会を失い続けるだけだ。だから新しい人が来ても問題を繰り返し、適合できる人間だけが生き残り、組織は誤った方向に進み続ける。
何度も聞かれるということは教え方が悪い可能性もある。何度も聞かれるということはそれだけ重要なことの可能性が高い。もしかすると自分にとっては同じように聞こえているが、相手にとっては全て未知の物に見えてしまい、同じものと認識できていないだけなのかもしれない。
何度も口頭で教えなければならないというのは文章化されていない、暗黙の知識化している可能性が高い。もしくは教えなければわからないものというのは引継ぎが必要だったり、担当者不在になったとき闇に葬られる可能性のあるものだったりする。そもそも仕組みがおかしいから聞かなきゃならないことになってるとかだと最悪だ。
たしかに常識的に考えられないほどやばい人間がいないこともない。で、じゃあそういう時はどうするのか。そもそも何故そんな人が入ってきたのか。上の人が問題を受け入れて現場への負荷を鑑みなくていいやと思っているからである。相当ヤバくてストレスが溜まって現場の雰囲気が最悪です、となったらちょっと上の人が問題を提起してシステムを修正するように働きかけないといけない。
人ではなくシステムを信じる
ともかくとして覚えが悪いとかやる気が足りないと怒鳴り散らす前にそもそも人間にやる気や根性を求めるほうが間違っている。そういったものをカバーできるようにみんなで助け合って補助できるように作るのがシステムであり、組織である。
逆に言えば全て完璧にできてやる気があって根性もあってなんでもできるなら会社なんていらないし、他の人間なんかいらないのである。ずっと一人で完結してやっていればよろしい。
当たり前だがそんな人間はどこにも存在しない。だったら人間それぞれに期待するのはやめて幅広く受け入れてシステムの上にのって根性・精神論を信用せず、システムを信用して改善していくほうがいいと思う。
上記に書かれていることとだいたい同じことを言っていると思う。誰かが休むのは許さないというのはシステムの敗北だと思う。誰もが休まず働くことを全ての働く特定個人に期待するというのは根性論・精神論じゃないだろうか?そこからは何の改善も生まれないと思う。
そこに適応できる人間しか残らず、適応できなければ去り、いつまでも休めない組織がずっと存在するだけだ。全員インフルエンザになれば破滅が待っている。まあそういう組織はインフルエンザだろうと個人の努力に依存するのが正しいのだろう。
おわりに
ガルパンのサンダース戦でシャーマン戦車について
「このタフなシャーマンがやられるわけ無いわ!なにせ、五万両も作られた大ベストセラーよ!丈夫で壊れにくいし、おまけに居住性も高い!バカでも乗れるくらい操縦が簡単で、バカにも扱えるマニュアル付きよ!」
と言っていたけれど、それは個人の特訓とか根性とか類まれなる何かに期待していたのではなかったことを示している。日本軍は尋常ではない精神力を鍛える猛特訓の果てに超人的な個人単位の戦闘力を有するようにはなったが…。そこらへんの話も失敗の本質に記述されていて面白い。
こうした戦術の例としては、夜陰を活用した駆逐艦の魚雷による漸減作戦や超人的ともいえる見張員の透視力(優秀なのは夜間八〇〇〇メートルの海上で軍艦の動いているのを識別できた)に頼る大艦隊の夜戦先制攻撃などが挙げられる。しかし、猛特訓による兵員の練度の極限までの追求は、必勝の信念という精神主義とあいまって軍事技術の軽視につながった。
失敗の本質 二章 失敗の本質 P290
夜間8000メートルまで人間努力すれば見えるのだから優秀な人間育てりゃいい、軍事技術よりも人間のほうが賢い、信用できる、努力根性…。が、残念ながらアメリカは優秀なレーダー技術によって人に頼らず正確に補足していたのだとか。
現代の日本のブラック企業なんかはこれに当てはめると面白いんじゃないだろうか。まさしく失敗の本質通りのような気もする。機械やシステムなどを信じずに確かに局所的には大成功を収めるが…。
先の見張り員の話だが、優秀な人間からどんどん戦死していく。すると練度はガンガン下がり、それによって艦の探索力は落ち、後は的になるだけだ。人に頼るといざ大量にやめられたら待つのは…。システムは個人の能力に依存すると脆くなるということだろうか。
更に失敗の本質は鋭い言葉で続きを書いている。
ときとして戦闘における小手先の器用さが、戦術、戦略上の失敗を表出させずにすましてしまうことがあった。
(中略)
こうした日本軍の戦闘上の巧緻さは、それを徹底することによって、それ自体が戦略的強みに転化することがあった。いわゆる、オペレーション(戦術・戦法)の戦略化である。
(中略)
本来、戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない。とすれば、状況に合致した最適の戦略を戦略オプションの中から選択することがもっとも重要な課題になるはずである。
失敗の本質 二章 失敗の本質 P291
いつの間にか日本のそういった根性論なんかは休まずに24時間残業上等な働き方が一定の成果を得て、それが当たり前になった。しかしこれはあくまで戦略、戦術の失敗を覆い隠すだけのものである。
冒頭の記事で最もでかいと思われる錯誤は、「どう見てもマネジメントが敗北しているのに、何故かそれを社員同士の不満のぶつけ合いという状態にして放置している」点です。
上記のリンク内の文章だけどまさしく…失敗の本質そのものを繰り返している。マネジメントの敗北=戦略、戦術の敗北に等しい。
実は途中まで失敗の本質のことなんて考えてもおらず、なんとなく個人に能力を過大に求める組織は全く脆弱だとしか思っていなかったのだけれど、ふと昔読んだ失敗の本質へとたどりつくことができた。無意識のうちに心の中に息づいててくれたらしい。助かった…。
しかし記事を書いている時にホント絶望した。失敗の本質に書かれている危惧通りの現代日本である。何にも変わっちゃいない。日本の人々が作り出す組織は戦前の構造とこれっぽっちも変わっていないというわけだからだ。なんだか虚しくなってくる。
失敗の本質は厚い本に見えるが、実際のところ二章・三章の部分だけ読めば大丈夫。100ページ程度で日本人の組織構造や精神構造について分析し、なぜ失敗したか、今後どうすればいいかがきちんとまとまって書いてある。
昔のこととか戦争なんて関係ないと思わず、日本全体の組織を作って目的を達成しようとして盛大に失敗したという深い学びに満ちた必読の書である。それは現代社会でもまったく変わっちゃいない、そういうことに深く絶望できる。