かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

勉強をしない人たちの持つ不寛容さをどうすればよいか

 

簡単な式しか受け入れられない人たち

例えば残業するほど生産性が上がるということに賛同する人はどれほどいるだろう?
一時的には生産性が上がると答える人はどれくらいだろう。
実際に上がったこともあるし、仕事をたくさんこなせると言う人もいるだろう。
だが生産性というのはたった一つのパラメータではないし、長期的に見る必要がある。

残業時間が増えれば体力が減り、集中できなくなっていく。ミスも増える。
健康も悪くなり幸福度も下がる。離職率も高くなる。
ブラック企業であると言われれば採用も難しくなる。全体的に不幸になるのだ。
ただこの理論は日本ではまだまだ非常に根強い。

なぜか?答えは小学生レベルの非常に簡単な理論だからだ。
仕事の生産性=人×働いた時間 というものすごくシンプルな計算式だ。
だが現実は非常に複雑で、こんな簡単な式が成立するならコンサルなんていらない。

 

こうしたシンプルで昭和的古い価値観が若い人の中にも受け入れられている時がある。
古い日本の価値観がなぜ再生産されるのだろうか?
第二次世界大戦から成長していない努力至上主義をたまに見かけることがある。
以前にも書いたが失敗の本質がまったく活かせてないのだ。

kayanomi.hatenablog.com

こうした戦術の例としては、夜陰を活用した駆逐艦の魚雷による漸減作戦や超人的ともいえる見張員の透視力(優秀なのは夜間八〇〇〇メートルの海上で軍艦の動いているのを識別できた)に頼る大艦隊の夜戦先制攻撃などが挙げられる。しかし、猛特訓による兵員の練度の極限までの追求は、必勝の信念という精神主義とあいまって軍事技術の軽視につながった。失敗の本質 二章 失敗の本質 P290

https://kayanomi.hatenablog.com/entry/2017/10/27/235900

古い価値観の再生産

例えば現代では多様性を持った社会が望ましいとされる。
自分にとってそれは非常に簡単に理解できることだ。
多様性のない社会の一例としては知的能力や健康に問題のある人を排斥することだ。
計算ができない人や自宅から外に出れない人は社会の役に立たないと切り捨てる。

けれど多様性を受け入れれば事故に遭い今までの働き方ができなくなった人を救える。
多様性を受け入れるということはセーフネットの拡充でもある。
働ける人の数も増えるので、日本全体の生産性もあげることができる。
自分や配偶者になにかあっても安心して働ける社会。
さまざまな働き方ができるなら再雇用の可能性も高まる。
人材の流動性が高まればブラック企業なども根絶できるかもしれない。

けれども若い人に古い価値観の再生産が起こっているのを見かける。
なぜこんなことが起きるのか。
やさしく書けないが、要するに勉強をしないと価値観が非常にシンプルになる。

こうしたシンプルで古い価値観を持つ人はあまり学ぶのが好きでないことが多い。
その価値観がいったい何をもたらしたのか、今後なにをもたらすのか考えない。
世界が簡単であればいいと信じているのだ。学ぶのが嫌だから。

非常に単純な理論で物事を理解したがるのである。考えることが嫌なのだ。
世界がシンプルで自分の考えが正しいことを望んでしまう。
例えば健康でない人や容姿の悪い人をすべて排除すれば完全な社会が生まれるとかだ。
一見正しそうに見えるが言っていることはナチスと変わらない。

今現在の多様性を積極的に受け入れる社会のほうが正しい。
間違いを受け入れたほうがいい。
そもそも人間という生き物自体が正しくもなんともない。完璧なんてどこにもない。

ただのヒステリックな潔癖集団が生まれるだけである。
そのうちエリートや血統主義が蔓延り、奴隷制も始まるだろう。
完全に中世の価値観に逆戻りである。

 

不寛容さを乗り越えるには

そんな単純な価値観が再生産されるのは結局、学ぶということが嫌いだからだろう。
その溝は非常に大きい。
勉強をしている人間たちにもそれぞれに断絶があるというのに。

世の中はおそらく勉強が好きでない、可能ならばやりたくない。そんな人が大勢だ。
より近代的な価値観では、この世界は複雑であると認める必要がある。
そして毎年価値観を更新する覚悟と学びが必要になる。
そうした努力ができる人が非常に少ないのだろう。学習コストも高い。

だが今の所文化が中世に逆戻りしていないところを見ると少しだけ安心できる。
ある程度義務教育で習う内容や啓蒙している人の言葉が伝わっているのではないか。
人間は学ぶことで文明を進歩させ、繁栄させてきた。
一人ひとりの学習水準が上がることで文化がより発展していく。
そうした地道な努力が不寛容さなどを徐々に根絶できるのではないかと思う。

 記事を書いている最中にちらっと見かけたのだが、こうした寛容のパラドックスに立ち向かうには個人個人の勉強の質、学習水準を上げるしかないのではないかと思う。