自分が理系だと思い込んでいたが
昔、中学や高校の頃は自分はばりばりの理系だと思っていた。世の中のことは全て決まっていると思っていた。ロマンチックなことやホラーな話もまったく信じず、科学を信奉していた。何かを論理的に考えるのが好きで、数学の問題なんかは論理パズルのように感じられ楽しかったのを覚えている。
もちろん物理や科学も大好きで自分の身近にある物理現象がどうしてそうなっているのかを説明され、実験によって確かめるということに本当に感動していた。以前に記事にも書いたが物理でドップラー効果を自分で確かめられたことはなんともいえない達成感に満ちていた。
数学と物理、化学も得意だったのでテストの点数もよかったので自分は理系だと思っていたし、周囲からもそうみられていたと思う。けれども現代文や古典、社会などの点数もそこまで悪くもなくどっちもどっちという感じでもあった。特に苦労することもなく適当に暗記しておけば解ける社会なんかは楽しかった。どうしてそんな歴史を歩んでしまったのかということを知るのも楽しかったし、ばんばんどうでもいいようなわき道の知識を話す先生も好きだった。
だから別に文系というのも不得意でもなく、けれどもまあ理系が好きだと信じていたので自分は理系だと思っていた。だが、だんだん数学の内容が難しくなっていくにつれて自分が理系であることが嫌になってきてしまった。自分が理系でい続けるということが酷くつらいことのように思えてきてしまった。
理系でいることがメリットだったから自分をだましていた?
日本の学校教育の偏見かもしれないが、一般に理系のほうが偏差値が高く文系は若干低めになっていると思う。だから理系のほうが文系よりも就職面でも価値があると思われやすいので、親としても理系のほうが安心だなんて言ってきたりする。そういった世間体とか就職とか社会の為の実践力を養うとか…そういった気持ちではなく自分は純粋に理系的な学問が本当に好きなのか?ということを数学の壁にぶつかるたびに考えるはめになった。
そんな理系・文系の日本独自の考え方を壊してくれたのが「ヤバい経済学」だった。この本は理系的な読み物なんかじゃ全然なくて、おもしろい小説として読めるほど優しい本だ。だが書いてある内容というか取り扱い注意なものが多すぎるのでわざわざタイトルに”ヤバい”とついている。
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- 作者: スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー,望月衛
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2007/04/27
- メディア: 単行本
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この本の著者は確か文系で、経済学部に興味を持って入ったのだがまさか数学をバリバリやるとは思わずに隣の席の人に「あのヘンテコな記号はなんだい?」と聞いて「お前相当ヤバイぞ」と言われるぐらいヤバかったらしい。けれどこの本の著者がすごいのはそこではなく、むしろ抜群の探求心に本質的な部分がある。
この本は著者がふと疑問に思ったり直感的にこうじゃないかと思ったことをなんとかしてデータとデータを結び付けてみてきちんと相関があるかどうかを調べて結果を出してみるとこうでした…という仕立てになっている。これがすごくてごく普通に一般人が手に入るデータとデータを組み合わせてテロリストの存在を暴き出す…なんてことをやってのけたらしい。高度な数学の知識をおそらくは持ち合わせていないのにもかかわらず!
必要なのは高度な関数の解き方よりも問題を解く力なのかもしれないと読んでいて思うようになった。頭の使い方が非常に柔らかく、それでいて自分の課題がどこにあるのか、どこを抑えればいいのか、そしてどのように検証すれば正しいとわかるのかを緻密に考えている。その能力はまさしく理系のような論理推論能力だと思う。
しかし…ある意味文系なような気もしてくる。問題文をきちんと読んで、それに対して適切な答えを導いたり、自分の主張をまとめるといった技術は間違いなく文系…のはずだ。歴史についてもよく学んでいれば過去の事例として自分の頭の中でいろいろと使える知識になるかもしれない。だから「ヤバい経済学」の著者は理系・文系の型に全くとらわれていないように見えた。
文系・理系の無意味さ
日本では理系・文系の考え方が主流のようだが海外ではまったく区別されないらしいので、むしろこういった本が示している文系・理系の区別など無意味ということが正しい気がしてきた。基本はどの学問でもなんでも、自分がどれだけ解決したいものに近づいて、その課題の本質をどれだけ理解できて、そのうえで解決策をいくつも思いつき、そしてその妥当性を自分で検証できる…こういった能力こそ大切なのではないか。
そう自分の中で結論付けると、じゃあ別に理系にこだわらなくても全然いいやと思えるようになったのである。別に高度な数学の式を解こうが、小論文を大量に書こうが自分が身につけたいと思っている、問題をきちんと解こうとする能力には関係がない。どっちでも同じような能力は身につくはずだ。だとすれば無理して数学を好きにならなくてもいいかなと思うようになった。
もともと自分で何かを考えるのが好きでいろいろ空想に耽り、本を読むのが好きだったことをようやく思い出し、実は自分は文系だったのでは?という考えに至った。今までは世間体とか受験戦争とかそういったものの為に自分が理系大好きと思い込んでいたけれど、そういった枠を外せばまあ文系的な人間なんだろうなと思うようになった。
というかいったんそういった先入観が外れるとまさしく文系と理系の分け方は無駄だなと思う。科学だって歴史のカタマリみたいな部分が数多くあったり、数学にもちゃんと自分が何を目指しているかを意識していないと見失ってしまう部分もある。経済学には統計的な知識が必要で、それには数学の知識がいるし論理的な考えももちろんいる。文系・理系はどちらも入り混じっていて、100%理系といった学問はまったくもって存在しないと思う。とすればやはり分け方が間違ってるのではないだろうか。そんな風に思っている。
おわりに
今はもう理系チックなことは全然やっておらず、ひたすらにこのように毎日文章を打っているので文系な人間と思われてしまうかもしれない。自分の中ではもう「”あえて”分けるなら文系です」という気持ちだ。自分がどちらに属しているかというのはコンプレックスでもなんでもないし、意味がない区分けと思っている。
思うに学校というのはすごく閉鎖的でなかなか外の知識や見方が入ってこないからあっという間に受験戦争に染まってしまうのだと思う。受験戦争が終われば今度は就職戦争が始まってしまい、今度は社会に役立つ人間になろうとどんどん染まっていってしまう。そうなると自分が理系か文系かなんてきっちり分けてしまうことになる。
けれども自分が理系だとか文系だとかでプライドを持ったり勝手に苦手だと思ってしまったりするとそれだけで本当に損してしまっていると思う。思ったよりも自分が得意なもので身に着けたものが、自分が苦手だと思っていたジャンルに十分通用するなんてことはよくある。だから自分自身、そういった苦手だと思わないようチャンスをなくさないよう気を付けたいと思っている。