かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

子どもの頃、大人になったら雨を嫌いになりたくないとずっと思っていた。

 

毎日のアトラクション

子どもの頃、家に帰るまでに雨に濡れて、おまけに泥まみれによくなっていた。本人としてはまったく気持ち悪くもなく、ざーざー体に当たる感触も楽しかったし、泥は泥で汚れたって別に構わなかったし、ひどい雨ならその泥まで落ちていくのを見て大笑いしていた。道路だってあちこち水浸しで泥池や泥の川みたくなっていて、それをしげしげと見つめたり、わざと入ってみたりとアトラクションそのものだった。

 

雨を飲んでみたり、味わったり、わざと上を向いてうわーとやってみたり。手で雨を受け止めて友達にぶつけてみたりとはしゃぎまわって楽しかった。けれども自分の親はものすごい怒った。やれ風邪をひいたらどうするとか服が汚れて手間がかかるとか。傘をさして濡れないようにどうして帰ってこれないのかと叱られてばかりだった。

 

雪の日もそうだった。雪が降れば朝会社に行く父親が酷く憂鬱そうに「雪なんて降らなければいいのに」とつぶやくのが常だった。雪かきがめんどうだと母が言う。自分は雪も大好きな子供だったから率先して雪かきをしたいと言い出しても「子どもは黙って家にいろ、風邪ひく」とか「無駄なことをやらなくていい、じっとしてろ」とか、そんなのばかりだった。

 

どうして大人は雨や雪を喜べないんだろうかと本当に疑問に思っていた。こんなに楽しいものなのに。いつだって雨や雪が降るわけじゃないのに。特別な時間なのに、どうしてとずっと思っていた。体調を気にしてくれるのはありがたいけど、雨を嫌う理由にはならないじゃないか。雪が降って交通網が麻痺したって、雪が嫌いになる理由にはならないんじゃないか。そんな風に思っていたから、絶対大人になっても雪や雨を子供の頃の気持ちを忘れないで、ずっと好きでいるんだって決めていた。

 

今だってずっとずっと好きでいる

そんな子供の頃の気持ちを今でもずっと持ちつづけて大人になれた。ずっと雨と雪は大好きだ。大人になって自分ひとりで身の回りのことを管理するようになってますます好きになった。たまに誰もいない帰り道、傘なんかささずに一気に走って帰ることがある。どしゃぶりの酷い雨で、おそらくゲリラ豪雨かなにかで、一時間近くお店でのんびりお茶でもしてれば去っていくのかもしれない。でも、このスゴイ雨に濡れながら走るなんて経験、そうそうできないよな!と思って走っていく。

 

もちろんたくさん濡れるし、前は見えないし、通行人から変な目で見られることだってある。けど自分はとっても満足だ。子供の頃あれだけ叱ってきた大人はもういない。たくさんずぶぬれになってお気に入りの服なんかはもうめちゃくちゃになって、すぐにお風呂に入る。洗濯の手間だってあるけれど、そんなのどうだっていいぐらい心の中では満足そうにはしゃいでいる。

 

雪だって同じ。ちょっと積もってくれれば手袋もしない手で握って感触を確かめる。すぐに冷たくなって、赤くなって、じわじわと水になっていく。髪に積もっていく雪もなかなか面白いものだ。髪の毛の雪化粧なんてそうそうできないぞと思ってニコニコしながら歩いていく。

 

自然の不自由さを嫌う文明

農家の人は雨を喜ぶとも言うし、雪が作る世界はとっても素晴らしいものだと思う。どこまでも白く、音が雪に融けていくような静かな夜なんて得難いものだ。どうして嫌いな人がいるんだろう。それはきっと人間の文明の進歩なんだろうなと思う。便利さとかそういったものが自然の不自由さを嫌うのだ。

 

いつでもどこでも、どんな時でもお仕事優先。天候なんて言い訳の常套句。列車の遅延なんかで遅れてくる人間は社会人失格。だから少しでも気候の変化なんかあってほしくない。そんな人たちはきっと毎日が同じ天気で構わないのかもしれない。毎日晴れていて気温が一律で、四季なんていらないのか。それは日本じゃなくてもいいんだろう。ただのコンクリートで囲まれた地下の世界で十分暮らしていけるほど豊かになったからだろうか。

 

人間がコントロールできる範囲は非常に増えていったと思う。あらゆる地点にすぐに移動できるような交通網だったり、世界中の情報だって瞬時に取得できる。けれども地球環境なんかホントダメダメだ。二酸化炭素排出量なんかまるでコントロールできやしない。生産性をコントロールしてより向上させることに躍起になっているけれども、一方で環境破壊なんかはやむを得ない犠牲としてまったくコントロールを諦めている。

 

天気や天災というのは古来から人知の及ばないものとして扱われてきた。神様のお怒りだとか妖精のいたずらとかそういった扱いだ。だから自分は酷い雨とか豪雪なんかが発生した時に苛立ったりせずに、むしろ自然と触れ合う機会だと考えている。

 

お祭りなんかも同じような精神だと思う。お祭りを執り行うことで地域全体が自然とか神様だとかそういったものと触れ合える瞬間を作ること。そういった機会を漠然と受動的に待つのではなく、日々起きる天気だとかそういったものに自然の偉大さとか神様的なものを感じ取る心を持つことが大切なんじゃないだろうか。

 

おわりに

雨が多い季節になって露骨に嫌がってめんどくさそうにする人を見る機会が増えてしまい、そういった人々を見てるとこちらの気分が落ち込んでしまう。どうして雨はそこまで嫌われてしまうのだろうか。確かにジメジメとした湿度は大変に過ごしにくい。けれどもそれもまた季節として一句作るぐらいの風情と余裕が欲しいなあと思う。