かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

グルメに対する自分の想い。決してそれは下品ってだけじゃないはず。

 

本当に品がないことなのか?

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自分はご飯が大好きで毎食を楽しみにしてるし、いかにもおいしそうに食べたい。それにおいしかったらお礼を言うことだって欠かせない。食事を楽しむこと、それはきっと趣味みたいなもので世間一般にはもしかすると”グルメ”なのかもしれない。

 

グルメとはそもそも食道楽とか珍味に詳しいとか食材に詳しいといったことを指すらしい。だから純粋に食事を楽しむ人が含まれているかは微妙だが…。ただ上記の指摘によると食欲自体があまりいいものだとは思われていないらしい。どうも潔癖なところがありそうだが…。

 

たしかに人間という生き物が他の生物を犠牲にして…犠牲というのも非常によくない表現の気もするが、ともかく他の生物を食べて生きている。それこそが浅ましいという意識がありそうだ。ここまでくると仏教とかベジタリアンの話などが絡んできそうで若干宗教臭がしてくる。

 

というわけでおそらく上記記事を書いた人は”欲”自体がよくないという意識を持っているに違いない。なかなか高潔な方のようだ。このこと自体を否定しようとすると泥沼になるし、そもそも否定なんてしないほうがいい。それは個人の主義主張に絡む問題なのだから。あくまで一意見としてその考えは尊重される。

 

自分が獣であることに耐えられない人間

とはいえ普通に暮らしていて”欲”というものはそれほど悪い存在でもない。人間は食べ続けるということ自体が悪なわけで、食べ続ける限り罪が増えていく…なんて考え方で生きている人はほとんどいないだろう。それは人間が動物だから、その生物としての根本的な部分が自分たちを無意識に正当化しているのだと思う。

 

自分は人間なんて大したものじゃなくてただの動物だと思っている。いくらなんと言おうと人間は自然の中で生きる一匹の動物に過ぎない。頭が良くて文明があろうが、その前提だけは変わらない。だから人間の食事に関しても自然のルールにのっとるべきじゃないかなと思っている。

 

けれど人間はただの動物としてだけでなく、現代では社会的な生き物としての振る舞いを求められる。獣としてではなく自立した人間という存在が求められる。それはきっとある程度自然の生き物としての”獣”的な部分を隠すように求められているのではないか。

 

だから人間は服を着て、そして正式な場所では更に制服を装って”獣”部分を隠そうとする。それはきっとその場が”獣”としての人間ではなく”社会的存在”としての人間が集う場所だったりするからだと思う。

 

食事も同じで誰も見ていなかったら獣のように食べても問題ない。地面に這いつくばろうがそれは勝手である。ただし社会的な人間としての振る舞いが求められる場合、それ相応の態度が必要になる。きちんと椅子に座り、机の上で箸を使って…。それでいて奇声を上げたりせずに、周囲に飛び散らせたりしないように食べる必要がある。

 

きっと社会として獣的な人間の振る舞いを求められていないから人間は社会的に正しい食べ方を求められるのだろう。逆に言うと一般的に下品と言われるのは人間が”獣”のように見えるような食べ方をしている時なんだと思う。それは社会的振る舞いではきっとないのだ。

 

知性を持てば持つほど欲が嫌いになる?

 人間はいくつも異なる顔があってそれに揺れ動いているのだと思う。獣としての自分、これはなんといっても人間が動物である以上当然のごとく存在する。そして社会的な人間としての自分、これは常識として教育を受けて刷り込まれたものだ。最後にきっとこうあるべき、もしくは高潔さをさらに追い求める社会的な立場。これが少々厄介な気がする。

 

人間が賢くなったと錯覚すればするほど獣としての自分が嫌になってくる。なぜ食べなければならないのか、眠らなければならないのか、子孫を残さなければならないのか。なにもかも不自由に感じられ、自分が知能だけの存在に慣れればいいのにと錯覚する。肉体なんてなければいい、魂がきれいでありたいと言う気持ちなのだろうか。

 

こうした気持ちから社会的な立場だとか、身分だとかそういったもので獣としての人間を追い出そうとする。下賤の者だとか王族なんて言って流れる血が違うからと獣としての人間を嫌がる。それこそが”欲”を嫌う本質じゃないかなと思っている。

 

フードポルノと承認欲求と狩り

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最初に挙げた記事の中ではフードポルノに触れられている。日本では俗称として「飯テロ」なんて挙げられているがようするに「自分はこんないいもの食べました~」とインターネットに公開する行為のことを指す。人に見せびらかすような行為を批判する単語だ。

 

このフードポルノという単語もなかなか強烈なもので食欲をいたずらに掻き立てるモノという意味合いだろう。確かにおいしそうに写真を撮ること、雰囲気を伝えようと頑張っているものが多い。

 

きっとSNSという場が「シェア」することに特化しているからこそこういったものが大量に氾濫するのだろう。自分もブログ記事として昨日もうぐいすパンについて書いているからあまり人のことは言えないが…。

 

大昔には狩りをした結果を晒したりしていたのだろう。そういった狩りの戦果だとかそういうものを周囲に広めるものの現代版なのだろうか。群れに情報を伝える部分が刺激されるのだろうか。そんな風に思ったりもしている。

 

そう考えると下品とか飯テロなんていう思いよりも、「ほう、この動物はこのような獲物を狩り、身体への栄養にしたのだな」みたいな気持ちに見ている気がする。そしていいねボタンを押すような気持ちだ。だからあまり食欲に直接は結び付かず、下品だなあとはあまり思わない。

 

たぶん釣りをしている人が釣り結果として魚の写真をアップロードしても何も感じないと思う。うまそうだなあとはすぐには思わないからだ。けれどそれを刺身にして食べているとおいしそうだと感じる。それは果たして下品に感じるだろうか?ちゃんと狩りをした結果ありついた獲物を喰らう姿からはあまり下品さを感じない。

 

書いてみて改めて思うが人間の食事に対する欲というのはなかなか複雑なように思う。一方で下品だと感じる人もいるし、楽しむ人もいる。自分の想いは書いてみたけれど、しょせん一般市民。あまりはっきりとした意見が書けず曖昧なものになってしまったけれど、これが精いっぱいである。

 

 おわりに

食事のマナーなんていらないよ、だって要るような場所に行かないから。というのは子どもの頃よく言ったし聞いた気もする。英語だって海外行かないから勉強したくないと同じ理論である。

 

けれど大人になってみるとマナーができていないと妙にいたたまれない気持ちになる場面が多く恥ずかしいというか申し訳ない気持ちになる。食事のマナーというのはおもてなしみたいなものだ。相手を不快な気持ちにさせないための心配りのようなものである。

 

この食事マナーについて音をむやみやたらに立てないとかそういったものがあるけれど、要するに普通に食べてしまうと一気にけものっぽさが出てしまうのだと思う。だからマナーとは獣としてではなく、人間として栄養を取得するためだけでなく”食事”そのものを楽しんで味わっているのだと示すためにあるのだとちょっと悟ったことがある。

 

kayanomi.hatenablog.com

以前に燃料補給のような食事をしないようにしようという記事を書いた。これはただ口に入れて体に栄養を入れるだけというのは寂しいという話。一つ一つ味を確かめるように食べることを薦めた記事だった。

 

味を楽しまずに口に入れて体に栄養入れて過ごすことなら簡単にできる。けれどそれは人間らしくないのではないか?もちろん動物として生きていくには全くと言っていいほど問題はないし、そのほうが余計な殺生もなく、おまけに食欲に対して悩まなくてよくなる。

 

けれどそれは逆に人間らしいのだろうか?人間というのは動物なのだからやっぱりそこは忌避するものではないと思う。下品だとか食欲に従っておいしいモノをなんて選ぶのが間違っているわけでもなく、ただ食べる中でちゃんと味わって楽しめればいいんじゃないだろうか。自分の中の欲だったり動物性を極端に嫌わないで生きたほうが良いと思う。

 

人間らしい食事という言葉から何を連想するだろうか?それもまた面白いことだと思う。