かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

サードプレイスへのあこがれ。日本じゃ見つけることが難しそう。

 

”第三の場所”

疲れていたり癒しが欲しいときに、ふと自分にとってのサードプレイスが欲しいなあと思う。単なるストレス発散の場所ではなく、第三の場所。自分が何者にも縛られていないような場所が欲しいと思う。

今日まで厳密にサードプレイスについては調べたことがなかったのだけれど、Wikipediaを見たら驚いた。日本ではかなり困難な条件のように思える。

 

サード・プレイス - Wikipedia

中立領域
サード・プレイスの構成者は義務感からそこにいるのではない。彼らは、経済的、政治的、法的に縛られること無く、喜んでやってくる。
平等主義
サード・プレイスは、個人の社会における地位に重きをおかない。経済的・社会的地位は意味がなく、ありふれていることが許容される。サード・プレイスでは参加するために、何も必要条件や要求がないこと。

 

まあこういった条件が当てはまるものは少しはあると思う。中立であること、平和であることというのは何事においても大切だ。だが徐々に条件が厳しくなっていく。

 

会話が主たる活動
遊びココロや楽しい会話がサード・プレイスの活動のメインフォーカスである。会話のトーンは気軽で、ユーモア、ウィットがあり、優しい遊びココロは高く評価される。
アクセスしやすさと設備
サード・プレイスはオープンで、みなが訪れやすい環境。柔軟で親切で、集まる人のニーズにこたえるところ。
常連・会員
サード・プレイスは、常連がいて、空間やトーンを形成する。その場所らしさを彼らがつくる。新たな訪問者を惹きつけて、新参者にも優しいところ。

 

この会話が主たる活動というのはなかなか難しい。ほとんど見ず知らずの他人とおしゃべりする機会のない現代社会。人口密度が高くても他人と積極的に話そうという気持ちはお互いにない。

 

控えめな態度・姿勢
サード・プレイスは、健全である。その中には無駄遣いや派手さはなく、家庭的な感じ。偉ぶったり、排他的であってはいけない。いかなる個人、あらゆる階層の人を受け入れる。
機嫌がよくなる
サード・プレイスでの会話のトーンは、けっして緊張や憎悪を生んではいけない。その代わり、陽気でウイットに富んだ会話、気さくな冗談は歓迎される。
第2の家
サード・プレイスにいる人たちは、しばしばあったかい感情を共有する。あたかも同じ家に暮らす者同士のように。この場所に根ざしている感情を持ち、精神的に生まれ変わることを得る。

さらに、そこにいるだけで機嫌がよくなるという条件も重なる。控えめな態度で、しかも同じ家の住人のようにお互いが思えるような場所があるのだろうか?本当に?

 

現代の日本では公園で子供がはしゃいでると老人に怒られてしまい、あらゆる遊びが制限されてしまう。挙句の果てには子供たちが公園で携帯ゲーム機とにらめっこしていたりする。こうした中でどうやってサードプレイスを見つければいいんだろうか。なるべく他人とトラブルを起こさないように隠れ住むような社会が、どうやったらサードプレイスなんていう場所を創り出せるんだろうか。

 

かつての自分にとってのサードプレイスはインターネットだった

自分にとってのサードプレイスはどこだろう。今までサードプレイスと呼べるほど居心地のいい場所はあっただろうか。そんな風に考えてみた。今現在はサードプレイスはないと思う。一人で気が安らぐ場所といえば本屋や図書館なのだが、誰かと会話することがメインではない。まあ著者と会話するのだ!と言い張ればいいのだが…。ともかく、すべての条件に当てはなるような場所は自分にはない。

 

だが、かつてはあったことを思い出した。それはインターネット上のサイトでだ。毎晩集まってチャットをする場所があった。そこでは誰も本名なんて知らないし、何をしてるかもしらない。権力やお金の話など誰も興味がない。ただ楽しくおしゃべりするだけのコミュニティだ。

 

新参者は歓迎されるし、中立、平和。金銭目的では誰も集まっていない。何かゲームをする訳でもない。ただそこに集まってチャットをするだけなのだ。お互いに好きな話をたくさんするだけ。その日に集まって、満足したら去っていく。アクセスに必要なのはインターネット回線とパソコンだけ。席がないとか混雑してるとか入会金がいるなんてこともない。振り返ってみると、あのサイトが自分にとってのサードプレイスだったんだな…と思う。

 

現代ではネットゲームや協力プレイのできるゲームで喋ったりできるけれど、仲間内でまったりとプレイすることがサードプレイスになりうるのではないか。ゲーム自体が目的ではなく、あくまで会話をするためのツールとして役立つ。物理的じゃなくても問題ないのかもしれない。TwitterSNSなどにハマる人はひょっとしてサードプレイスを求めているのかもしれない。現実でサードプレイスを見つけるのはあまりにも困難だから…。

 

おわりに

かつてあったサイトはもう存在していなくて、かつての仲間は散り散りになってしまった。もう一度同窓会のようにあってみたいものだ。そのサイトが消えてしまった時、いくつか分裂していったのを覚えている。ある人は絵を描くことに注力して、そういった仲間たちと別のコミュニティへと馴染んでいった。またある人はゲームにハマり、そちらの道へと進んでいった。自分はそういった人々の流れについていけず、いつの間にか取り残されてしまい、インターネットから遠ざかる結果になってしまった。

 

初めてコミュニティに入って話したときをあまりもう覚えてはいないけれど、かなり歓迎された思い出がある。どうして歓迎されたんだろう。人が少ない、隠れ里みたいなサイトだったからだろうか。いいサイトだった。いい仲間だった。いろんな問題も起きたけれど、お互いきっとよくなると信じて過ごしていた。毎日そこで話すのが楽しくてしょうがなかった。まあ話す内容を全然覚えていなかった気がする。ただ話を聞いたり、話すだけで楽しかった。

 

今思うと本当に不思議なことだ。だってただ文字を打つだけのことにあんなに夢中になっていたのだから。姿も形も見えない、どこの誰かもわからない、年齢も性別すらもわからない人たちと、なんでもない話ができていた。きっとそれがサードプレイスの魅力なんだろう。そこでは自分というものも薄められるのかもしれない。自分がだれかなんて関係ないという安心感があったのかもしれない。自分にサードプレイスを初めて教えてくれたのはきっとあの今はないサイトだったのだと思う。