かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

創作物と自分との関係について

 

鏡をランダム化しようとして失敗した図。でもQRコードみたいで面白い。

例えばこうしてブログ記事を書いているわけだが、果たして自分が伝えたい内容はきちんと伝わるだろうか。文章を書く技術が未熟なら、たぶん難しい。

 

だが、もっと本質的な話をしたい。

 

自分が作ったもの、書いたものについて果たしてどれほど理解されるだろうか。
理解されないことが前提としてもよいのだろうか。80%ぐらいわかってもらえばいい?
それとも完全に”いい感じ”に読者に伝わればいい、そんな感じでよいのだろうか。

 

 

いろんな意見をもらって、ようやく納得できたことがある。
作っている自分ですら、自分の思考や感情、知識をちゃんと理解できてないのだ。

自分とは自分以外のもので構成されている。
自分の体は、自分の食べたもので構成される。
外から取り入れて、自分を作っていく。知識もきっと変わらない。
オリジナルな自分成分っていうのはそこまで存在しないんじゃないか。

 

例えば文章の書き方について、これはいろんな本やらで学んだ知識をもとに書いている。自分がオリジナルで発想したものはほぼないだろう。

自分がこういう文章が好きで、取り入れたいと思ったものを使って書いている。

なにか創作物を作るとき、いろんなアイディアや技術を使って表現する。
だが、それらはどこかにもとのアイディアとかが多くある。
組み合わせたり分解したものを使って創作を行っている。

 

だとすれば”完全に”オリジナルなものは少ない。
知識のレゴブロックみたいなので、なにかを表現しているだけじゃないか。

 

結局のところ、自分自身もいろんな知識のつぎはぎでできている。
完全に理解できている知識は少なく、曖昧なままで生きている。
そうした知識を使って作る創作物に、自分の伝えたいことを込めても伝わるものはきっと少ない。しょうがないのだ。

 

よく考えれば、物事を正確かつ完璧に記述できる言語なんてない。
そもそも言語や単語を100%知っている人はどこにもいないだろう。
我々はどこかグラデーションで理解して言語を曖昧に使っている。
常用漢字以外は知らないで生きている人のほうがよっぽど多い。

 

絵だろうと写真だろうと物を作ろうと…伝わると信じられる要素は非常に少ない。
ある特定の経験をしていないと共感できないとか、色に関する教養がないと”なんとなく”しか感じられない。注意して写真を見るという気持ちがなければ見逃してしまう。

 

自分でもなんでいいのかわからないものがある。
なぜかついやってしまうこともあるし、なんとなくやる気が出なくて完成しないものだってある。けどそれはしょうがない。自分自身を完璧にコントロールできることもないし、完全に理解できることもない。

 

そういった不完全な自分がいて、その不完全なまま創作するものが完全であることはきっとないんだろう。自分にも伝わってない、他人にも伝わらないものが生まれることだってきっとあるだろう。

 

 

 

これは悲観的な話じゃない。要は自分の作ったものが伝わらない、それは当然のことなので気にしなくていいってことだ。もちろん60%くらいは伝わった方がいい。大事なこと、なんとなくでもいいから伝わってほしいことが、だいたい伝わればいい。
完璧に伝わることはきっとない。自分が完璧に作れる日は完全に来ないのだから。
そして自分のことを完全に理解できることも、きっとない。

だから深刻に悩まず、ただ作ってみて、より伝わる方法を見つけ出せるといい。
その上で自分の理解が深まるといいんじゃないか、と今は思っている。