かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

昔読んだ「人を動かす」の思い出

 

憶えていることは?

もう何年か前に読んだ「人を動かす」で覚えていることを書きたいと思う。もしくは現在も実践していることというか自分の習慣になったものだ。本の内容を感想として書いておけばいつでも見直すのは楽になるけれど、はたしてどれだけの内容が身につくか。そして習慣として役立てられるかはなかなか測れない。

 

「人を動かす」は世界的にも有名だし、いろんな人がオススメしたりしている。名言集のような扱いだってされるほどだ。書店のビジネス書、啓蒙書の棚には必ずあると言って間違いないだろう。人生に悩んでいたりこのままでいいのかと迷った時にふと啓蒙書の棚の本を一冊買ってしまうことはきっと誰にでもある。

 

自分が今なお「人を動かす」で覚えていて使っているものと言えば”素直な態度で接する”という感じだった気がする。警官に対してすぐに謝って丁寧な態度で接することで未然のトラブルを防げる、みたいな項目があったと思うがまさにそれだ。

kayanomi.hatenablog.com

先日こんな記事を書いて、店員さんに丁寧に接する大切さについて書いていたけれど思い返せばこれは間違いなく「人を動かす」から得た教訓だった。もちろん両親を反面教師としてというところもあるが、強く影響されたのは間違いない。それだけ自然と身に着けることができた。

 

身につかなかったこととわかったこと

ただ身につかなかったものとしては常に笑顔でいる、みたいなやつだったと思う。それだけは難しかった。因果関係として笑顔でいることにすればずっと笑顔でいられるのか。それは…多少はそうかもしれないが、かなり悲しいことがあったりあまりにつらい環境だったりした時に無理に笑顔を作る必要はない。

 

笑顔というのは疲労がなく、きちんと睡眠をとって、栄養を取ったうえで自分の安全だとか余裕があるときに自然と生まれるものだ。それらが欠けた中で作る笑顔には若干の痛々しさと何かを隠してしまうことになりかねない。自分の笑顔は人に見せるために創るものではなく、自然と生まれるものではないか。

 

笑顔で常にいれる人間は素敵だと思うし、接しやすいかもしれない。けれどそれを人に強く求めたり、はたまた自分を呪うように縛り付けるほど頑張るほどのものでもない。悲しいことがあったら泣いていいし、人に気配りできるほどの余裕がなければ笑顔じゃなくていい。じゃなきゃ、いつも笑顔じゃ誰もわからないし助けてくれないからだ。

 

そういう意味だと「人を動かす」では人をどうにか自分でコントロールしようという話ではある。だけれど人生は他にもいろんな力が働いていて、わりと流されることも多いし、流されることが良い場合もある。

 

自分にとって「人を動かす」はいい本だった。なぜならそこに書かれていることが必ずしも常に正しいとは限らないと教えてもらえたからだ。それに、この本が全て正しいのならば他にも”自分の心を動かしてくれる”様々な映画や本の名言たちを否定することになる。

 

今でもたまに見る名作中の名作・フォレストガンプの一番の名言を引用すると

本当はみんな、それぞれ運命を持っているのか、
それとも、みんな風に吹かれて漂っているだけなのか。

でも僕は両方だと思う。
多分両方が同時に起きるんだと思う。
フォレストガンプの名言集18個。お母さんが言った「運命」の話など

 「人を動かす」という名著に書かれていることは正しい。けれど同時に様々な自分の人生の中で出会う自分の心を動かす言葉たちもすごく正しいことだと思う。状況やもしかするとどちらも正しいことも起きることはある。そういった時は自分がどうしたいのかを決めなくてはならない。自分の心の中でどちらを選びたいのか。

 

人生に迷って啓蒙書を探して、その言葉を信じてやってみようと思いそのあとで十分に自分の中になじんだ後で改めてもう一度選択する。そういったプロセスがきっと自然なんじゃないかと思う。そうさせてくれる本がきっと良い本であり、だからこそ「人を動かす」は自分にとってやっぱり名著だった。

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

 

 

おわりに

自分が人生の中でもっとも大嫌いな言葉がある。それは「人を使う」とか「使えねー」という言葉である。そもそも人は道具なんかじゃないし、使おうとすることが間違っていると思っている。”使う”言葉の悪い例じゃないだろうか。

 

偉い人になればなるほど人を使って仕事する、なんてことがよくあると思う。そうしたほうが効率的だし、なにより大望を叶えることができる。たくさんの人を使えばもっとたくさんの仕事ができる。人をたくさん従えて使役できる人は権力がある。そういう構造なのは間違いないのかもしれない。

 

けれどそれは驕りじゃないだろうか。人を使えてると錯覚しているようなものじゃないか。人を従順に自分の意のままに操る方法は確かにある。肉体的な制限はもちろんのこと精神的に操ることも不可能じゃない。…が、はっきり言ってそこまでしない限り人の自由意思とは”使えない”ものだと思っている。

 

 だいたいは人には自由意思が尊重され、契約やらなんやらで協力してもらえる関係を築いている。そこに職業に関しての命令権などが移譲されているわけである。これを建前と取るか、もしくは人間として当たり前のことと受け取るかは大きく異なる。

 

人の力を借りるだとか協力してもらう、助けてもらうならわかるが結局のところ人間は人間を使うというのは難しいことだと思う。人を使ってあれこれ自分の期待や希望を叶えようとするようなことはしたくない。人を使うということは無意識に人を下に見る行為だからだ。

 

自分は人よりも優れているとは全く思わない。だからこそ人を使おうなんてちっとも思わない。一人でできることなんてほとんどないから助けてもらってばっかりで、助けてもらった分だけ恩返しするくらいだ。だから人に使われるのはごめんである。人を使う人はただの搾取にすぎないのだから。

 

ついつい本題とずれてしまったけれど、人を動かすというのは人をいいように使うというテクニックを列挙したものではないということだ。そこは大切にしたい。