かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

作品に対してよくできた撮影と独自解釈して安心させることもできる

 

精神安定とか作品への感情移入の切り離し

実はLeft 4 Deadをやったことがないのだが、この作品は「映画撮影」というメタな設定が組み込まれているらしい。ゾンビに襲われる悲惨なシチュエーションが少し楽になりませんか?このメタ設定。

Left 4 Dead - Wikipedia

機会があればやってみたいものだが、それは置いておこう。

 

とにかく物語に対して、自分の中で、映画の撮影に違いないことにしよう、もしくは別な作品の世界の話なんだとか、ありえたかもしれないIFの幻想なんだとか。

いわゆる夢落ち的メソッドを自分で勝手に適用して精神安定を試みる方法である。

 

例えば、二次創作の薄い本で自分のお気に入りのキャラクターが散々な目にあったり、理不尽な運命に翻弄されたり。もしくは気に入らないキャラとのカップリングに憤ったりするだろう。

 

そうした時、こういう世界もあるかもね…とかこれは別世界の話なんだ、並行世界の話なんだと理由をつける。そうするとまあ、ちょっとは溜飲が下がる。

 

いわゆる現作品・オリジナルの精神性を汚すものではないと自分を認識させるのだ。

 

二次創作物はオリジナルの所詮コピーと思い、オリジナルはオリジナルとして別格のような扱いとすることで素直に楽しめたりするのではないか。

 

 

オリジナルですらひょっとすると、物語の登場人物を神のカメラによって撮影したもの、なんて解釈すらしてしまえば、もはやなんでもありである。

ここまで拡大した解釈をしてしまうと物語の精神性とは…と深い哲学化してしまうが…

 

ともかく二次創作の自分にとって受け入れられないもの、ちょっとオリジナルを理解してないんじゃないか、アンチ・ヘイトによる悪質な落書き・中傷作品など。

ある意味、新興宗教の原典に対する勝手で過剰な解釈のようなものでもある。

 

自分の愛する物語に対して、精神の安定をとることは決して、感情的に間違ってはいないと思う。

もちろん二次創作者がいったい何を思って書いたのか。それに賛同するか、否定するか。それを行うこともちょっとした文学的な活動なのかもしれない。でも飽くまで自分の好きなこと。

 

自分の大切なものを守りたかったり、好きなものを真っ向から正面対決させるのは疲れる。そうした時の緊急防御として。そして無用な争いに対するエネルギーの損失を抑えるため。

 

人それぞれ、作品への向かい方は自由であると思う。そこには強制される必要もない。

今日はちょっと離れたところから見たいとか、ちょっと自分の精神を守りたい日があったっていい。

 

ぶつかり合うことや自分の精神をどっぷり漬からせることは、成長に必要かもしれないが…やりすぎれば廃人と化したり、ただの意識高い系になったりしてしまう。

 

狂った人間や病の重さ、悲劇的な事故。こういったものや大好きなキャラクターの死亡などはたとえ物語でも感情移入してしまえばショックは避けられない

 

だからこそ感情移入を強制離脱させたり、安全装置やファイヤウォールとして自分に納得できる言い訳を装備として持っていていいと思う。

 

そのうえで物語を真剣に語ったり、解釈したりしていい。ただそれは自分の感情的な体力やダメージを思いやりつつ楽しむことも大切だと思う。自分の思った以上に冷静になれなくなってしまったり、寝れなくなったりもする。

 

物語を読めば読むほど慣れてきてガンガン進められ、考察の度合いや感情移入も深くなりがちだからこそ、いったん離れる技術も備えておきたい。

 

作り話だったのか、という安心

この技術を書いていて思い出したエピソードがある。ゴルフ大会の賞金詐欺にあった人のエピソードだ。

hanalog.com

適当にゴルフ 賞金詐欺で検索して出てきた、よくあるテンプレらしい。引用する。

 

アルゼンチンのプロゴルファー、ロベルト・デ・ビンセンツォはあるトーナメントで優勝し、
賞金の小切手を受け取って帰る準備をしていた。
彼が一人で駐車場に向かっていると、一人の女性が彼に話しかけてきた。

彼女は彼の勝利をたたえた後、
自分の子供は重い病気にかかって死に掛けているが
お金がないために、医者に見せることもできないのだ
と彼に伝えた。

それを聞いて哀れに思ったビンセンツォは
「これが子供のために役立てば良いのだけど」といって、
獲得したばかりの賞金の小切手を彼女に握らせた。


翌週、彼がカントリークラブで食事をしていると
テーブルにゴルフ協会の職員がやって来た。

「先週、駐車場にいたやつらが、君がトーナメントで勝った後、
そこで若い女性に会っていたといっていたが・・・」
ビンセンツォはうなずいた。

「実は」と職員は続けた。
「彼女は詐欺師なんだ。病気の赤ん坊なんていないんだ。
結婚すらしていないんだよ。君はだまされたんだ」

「すると、死に掛けている赤ん坊なんていないのか?」
「そのとおりだ」
すると、ビンセンツォは笑いながらこう言った。
そうか。そいつは今週で一番の良い知らせだ」と。

 

実話かわからないが、ともかく偽物の、詐欺師の言う悲惨なエピソードはこの世になかったのである。それが作り話だったからこそよかったと。

 

かなりひねくれてはいますが、ひょっとすると本当に詐欺師は困っていたのかもしれないのです。本当だったかもしれない。職員が本当は詐欺師かもしれませんよ?…というのは酷すぎますね。すいません。

 

ともあれゴルファーにとってはよかった、ということが大切だと思います。彼自身がダメージを受けたのにもかかわらず、消化できたことがよかったのではないでしょうか。

 

この手法を二次創作とかで、なんだか悲しい扱いをされてたりした場合は使ってみるのもありではないでしょうか。

 

あとがき

…ちょっと無理やりだったかな。

 

…本当に、自分がまったくもって、物語に対して感情的にダメージを受けやすいので肝に銘じておきたい所存です。

 

最近は、はいふりでガンガン泣くわ、艦これで泣くわ、シャーロットで泣くわ…すごく疲れました…。