感情的に同じだと責めたくなる心
近頃、失敗続きでわりと落ち込んでいる。同じ失敗ばかりだと感じる。
一度失敗したことは繰り返さない、それが大人の鉄則である。
が、その繰り返さない鉄則すら失敗するので困ったものだ。
気分が落ち込むとすべてが悪いことばかりだと感じる。
同じことの繰り返しだ。そう思うのも無理はない。
だが同じ成功を繰り返していることについて言及されることは少ない。
例えば繰り返しゲームを何周もクリアすることはあまり褒められない。
一度できたことを繰り返せるのは当然みたいな風潮もある。
例外は甲子園〇〇連続優勝とかだろう。
でも毎日おはようとあいさつできることを褒められることはない。
毎日ちゃんと学校に行ったり会社に行くことは褒められない。
当たり前にできている、繰り返せている良いことだっていろいろあるはずだ。
それが目に付きづらいのである。本人にとっては当然のことだからか。
だから失敗したときにすごくダメージを負う。それはしょうがない。
けれども失敗の間隔とか、自分の受け止め方、状況の違いなどすべてが同じじゃない。
同じように感じるだけの少し違う問題を感情的に捉えすぎているだけかもしれない。
他人からみて同じだったとしてもまた違う失敗として活かせるかもしれない。
そう思うほうがよいはずだ。
失敗したときに、きっと普通の人は自分を責める。責任を欲しがる。
あの時こうしていればという理由を欲しがり、失敗を心底嫌いになる。
うまくやれば失敗のない人生を送れるはずだから。
失敗の対策をすれば、正しくやれば失敗はなくなるはずだから。
でも現実は失敗ばっかりだ。同じ失敗だって何度もする。
ありえない失敗も、大きな失敗も、繰り返す失敗も。
対策すれば大丈夫というのは幻想だ。
一度対策してもダメだったとき、それは立ち直るために用意されたものだと気づく。
失敗、失敗と書いているが、これはなんだか少し違うかもしれない。
もっと正しく言えば自分の心が受け止めきれないショックがいいかもしれない。
受け止められるものはただの結果に過ぎない。
実験中の失敗はただの経過やデータとして割り切れるからだ。
失敗、心が受け止めきれないものに対する反応はいくつかある。
心の防衛反応とか呼ばれるものだ。
これらを読むと心が弱っているときは相当ダメージを食らうので書かない。
…というのは逃避である。わかっててもとりあえず書かない。
知るだけでは心は守れない。知っていても守れるものじゃないのだ。
そして癒せるものでもない。回避できるものでもない。
勉強だけで鋼の心を持つ超人になんかなれるわけがない。
当たり前のことだが、失敗から逃げようとしてがむしゃらになることもある。
時間をかけたり、リカバリーを早くしたり、受け止め方を変えたり。
自分のことに対して無理せず、向き合っていくしかない。
そこに明確な答えもないはずだ。人生にも答えや正しいことはない。
正しそうなこと、よいと宣伝されているもの、常識、ルール。
そういうものがたくさんあっても、それらが自分の状況に常に合うわけはない。
あくまで平均的なものでしかないからだ。
それらを役立てつつ、ちょっとずつ試してみたりして自分なりに生きるしかない。