かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

コンピュテーショナルフォトグラフィ

 

カメラに興味を持つようになると、現代では当然の疑問にぶちあたることになる。
スマートフォンがあるのに昔ながらのカメラはいるのだろうか?
将来性はあるのか?滅びるのか、何が違うのか?

カメラ初心者なのでまあ素人考えなのだが一応整理しておきたい。断り書きを書かせてもらうが素人なので優しく見てもらいたい。

 

GoogleApple等が今はソフトウェア的アプローチで新たなカメラを作り出していると言っても過言ではないだろう。そして多くのユーザはそれに満足していると思う。ユーザは高いカメラとかで写真を撮りたいのではなく、手軽に情報を共有したい、人に見せたいだけなのかもしれない。

で、まあ調べていて面白い単語を見つけた。コンピュテーショナルフォトグラフィ。
GoogleのPixel3とかから語られている、いやもっと古い言葉なのかもしれないが…。
要は従来の光学的なカメラとは違いソフトウェアで画像処理を行う技術のことだろう。

自分の理解では、たぶんコンピュテーショナルフォトグラフィは光学的正しさを追い求めるのではなく、デジタルデータ的正しさを追い求めるアプローチということだと思う。


データとしてそこの地点に存在するということがわかるようにアプローチしている用に見える。測定的技術に近いのではないだろうか。なにが写っているのか、なにをしたいのかをカメラが理解して、情報を取得し、情報を加工してユーザに渡す。判断をするのは人間ではなく、機械である。


この一部はスマートフォンだけではなく、現代のデジタルカメラには搭載されている。食べ物なら食べ物、屋内なら屋内、人が写っていれば眼をおいかけて撮れるように。

 

だからコンピューテショナルフォトグラフィと現代のカメラ技術は地続きの技術である、とするのはちょっと違う気がする。それに感覚的にどーも受け入れがたい溝があると思う。

老害と言われるのは癪だが、なんかそれにしたって情緒がない気がしてしまう。きっとコンピューテショナルフォトグラフィに対して理解が進んでいないからだ。たぶん根底の思想がわからないから、不気味なもの、受け入れがたいものに思えてしまう。使い方がわかっていないのだ。

人はたぶん、使い方や根底がわからないものを「さあどうぞ!便利でしょ!」と言われると嫌悪感を示すのが普通だと思う。今まで積み上げてきた技術を無駄ですよ、と言わんばかりに感じるからだ。

 

コンピューテショナルフォトグラフィがもしも自分の最初の理解通り、そこにデータがあることだけを追い求める、正しさを追い求めるだけのデータ取得装置ならば実は撮影すらする必要がないはずだ。現実をVRにすべて落としこみ、カメラを構えて撮った場所を取得し、同じ角度、太陽光の計算、様々なものをすれば光学的情報は不要になる。

つまるところユーザが撮る必要がないのだ、おそらくは。機械が代わりに聞いてくる。どんな写真がほしいですか、撮ってきますよ、もしくは生成しますよと。もっとエモくだってできます、シンプルにだってできます。

 

もう一つの問題はユーザ側の加工が進化していること。RAW画像として出力してAdobe製品などで調整を行う。それはただの画像加工、画像生成となにが変わらないのか?ということだ。加工すれば加工するほど現実からは遠く離れていっているのではないか?

答えとしては写真というのは現実とは結局離れたものになってしまうということ。ディスプレイの違い、印刷の違い、カラーの違い、人の目の違い。欧米の方々はどうやらアジア系と違い、明るく感じやすいらしい。

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見る人も感じる人もすべて異なる。現実も結局は人によって見え方が異なるため、真実などどこにもない。どこかの芸人が言っていたが、空の青さを人に伝えることは困難なのだろう。同じ青が見えているようで、結局はやっぱり違うはずだ。

いくらお高い機材を整えて光学的な正しさを追求しても、どこにも正しさはたぶんない。高級オーディオと似ている問題なのかもしれない。ピュアな真実の音などどこにもないのだろう。

 

であるなら、オーディオ業界と同じようにデジタルデータとして扱われる写真データも受け入れるべきなんだろう。大事なのはデータなのかもしれない。一つとして生のデータがなくてもボーカロイドとして受け入れられた未来があるのと同じく、カメラ業界にもデジタル合成、背景置換などが受け入れられるのかもしれない。いや、もうCGとして存在する。CGのほうが好きな人だって多い。

 

まだ自分にははっきりとはわかっていないが、たぶん写真というのは作品に近いものだと思う。ストーリーを語るもの。現実においてあるもので撮るわけだが、そこにメッセージがある。伝えたいものがあるから、それを撮影して、それを読む人がメッセージを得ようとする。アート作品もきっと同じだ。伝えたいものがあるから作品として成立する。

もちろん記録としての写真、リファレンス写真もある。だが、こちらはきっとデータ化されたほうがよりよいのだろう。2次元データでフィルタ調整されたものよりも3Dセンシングされてあらゆる角度から光源の調整をあとからでもできるのならそれにこしたことはない。

 

光学的カメラを用いた撮影作品は、伝えたいものを伝えるための手段として存在するのだろう。カメラで伝えたいから撮るのではなく、伝えたいものがあるからカメラという手段を選んでいくのではないか。

だからきっと滅びることはないだろうし、コンピュテーショナルフォトグラフィに向かう人も分かれるだろう。それらはたぶん手法の違いにしか過ぎない。

正しくそこにデータが有ることが大事な人はコンピュータの力を借りたデータにて生成する。現実において、伝えたいものを光学という視点で、カメラでもって表現したい人のために、光学的カメラはきっと存在し続けるのではないか。

 

ここからは余談。雑談であり、ただの落書きだ。

自分がカメラを買った理由はまったくもって感情的な理由だ。
あれこれ機能がいっぱいのカメラじゃなくて、シンプルなものを買った。
それでもって一番の動機はかっこいいからである。どうしようもなく、惚れたからだ。

これで写真が撮りたいと思ったから買った。これがいい、これがほしいと。
機能では買ってないのである。2000km先までくっきりとか(そんなものはどこにも存在しないと思うが)スーパーAI自動設定機能!とかそういうのがあるから買ったのではない。

なんかいいなあ、ほしいなあ、これといっしょに過ごしたいなと思って買った。
機能だけじゃやっぱ心は動かないなと思う。デザインの力というか、なんというか。

買うときに思っていたのは、自分の気分でいいものにも悪いものにも思えること。
気分が悪い時はお金の無駄だとか、そういうのもあるし、すべての写真がわざとらしく見えたこともあった。目で見たほうがきれいじゃないか、写真なんて全部わざとらしいと、加工だらけだと。

気分がいいときはなんてきれいなんだと評価がひっくり返る。伝えたいものがあったんだな、こういう見え方も見せ方もあるんだなと。違った見方で世界を見るのって面白いことなんだ、それがこのカメラでできるんだ!と。

 

最近自分は感情的な人間だと思うようになった。根っからの理系で理屈ばっかりこねてる人間だ。カメラについてもあれやこれや理屈を並べたがる。文章だってこれで3000文字である。カメラ一つ楽しんでいれば誰も文句言わないのに、あれこれ納得したい、整理したいために1時間近く書いてるわけである。

理屈だらけなので感情はさておいて、理性が優先な人間のように”頭では”思うわけだが、それは全く違うわけだ。感情が動いてなければこんなこと書く意味もない。感情的な好きって気持ちを抑えきれないから文章を書いて落ち着けようとしているっていうのがきっと正しい。

どうしようもなく好きという気持ちが先にあって、あとは理由に納得したいだけなのだ。だから好きなものを買うし、好きなものを持って過ごしたい。

この記事を書いたのも結局はエゴなのだ。自分が光学カメラが残っていてほしいし、自分が好きだと感じた理由と将来について明るく感じたかったからだ。

ということで書いて整理して大変スッキリした。いくつか写真を撮ってこようかと思う。