美術館、卒業制作展などに行き、自分なりに現代の芸術はなにかを理解できた。
それは、見る側も、作る側も「混乱」しているってことだ。
アートとはなんなのか。どこからがアートで、そうでないかが揺らいでいる。
作る側が見る側に問いかけたりしている。
「あなたにとってこの作品はなんでしょうか?」「どう感じますか?」
もしくは奇をてらった、こじつければそう見えなくもない作品に
それらしく説明文が付け加えられる。
「この作品は〇〇を示しています、そう受け取ることができます」
アートの定義を先人たちが揺るがしてきた。
ただの便器や大量生産されたもの、印刷物に落書きに…
あれもこれも、こじつけたり、様々な出来事と関連することで
「アート」になってしまった。
定義が広くなった故に、意味が霧散してしまったかのようだ。
理屈がくっつけばなんでもアートになっているのではないか。
理屈=見る側だから、見る側に解釈を押し付けていないか。
まるで裸の王様のような。これは誰がどうみてもアートなのです。
信じる限り、それはアートなのだと。
と、まあこんな感じに思える。自分としては。
解説だろうが、文脈だろうが、先人たちの作品がどうとか…
あまりにも混沌・混乱が激しすぎて、これが主流だとは到底思えない。
現代アートと呼ばれるものに、答えは見つけられるのだろうか。
このブームに終止符を打てる作品は生まれるのだろうか。
一方、アート文脈ではない商業的な、趣味などのイラストの進化は素晴らしい。
わかりやすいし、親しみやすい。それに、個人がずっと表現しやすくなった。
ツールは無料でもいっぱい使えて、無料素材も充実している。
今じゃスマホでも良い絵が描ける時代だ。小学生でもデジタルアートとして素晴らしいものだって作れるだろう。
風刺画、政治的なもの、ギャグ、ためになる知識…はSNSとかで拡散・人気を得るようになった。展覧会とか、新聞とかに載る必要はもうなくなった。
誰もが簡単に発信できて、それがバズればだいたいの目的が達せられる時代になった。
ゲームだって、物語だって、音楽だって、MVだって、動画、映画も全部個人で作れる。予算がなくても、趣味でも十分いいものが作れて、バズれば評価だってされる。
だからこそ、アートの本筋は見えづらくなっていったのだろう。
個人でも良いもの、親しみやすいものが芸術活動として盛んになり、なにか…学術的とも言えるべき、権威とも言える差別化が必要になった。けれどもそれは難しく、ずっと混乱しっぱなし。
今の時代はアートの主流とかにこだわらず、権威も必要のない時代なのかもしれない。
商業的な成功が正しいとも言わないけれど、なにか個人の中にある目標・夢を叶えたいのならその道は主流でなくてもいくらでもある、と言えるのだろう。
だから美術館にしげしげと足を運んで、現代アートたちを見て「アートとはなにか」を考えるのは、ちょっともったいないとも言えるかもしれない。
芸術はずっとずっと豊かになった。周りにたくさん溢れ、素敵なものが増え、自分でも作り出せるようになった。
万人にとって良い作品、権威付けされた作品。それらの比較もしようがないし、する意味ももはや無いのではないか。
書いてて少し混乱してくるのだけど…ひとまずは、こんな感じで芸術を捉えることにする。