かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

雰囲気のいい蕎麦屋と悪い蕎麦屋について

 

蕎麦エントリ第二弾

kayanomi.hatenablog.com

思ったよりも自分は蕎麦が大好きらしい、というのもこんなタイトルの記事を書いているからだ。特別そばにこだわりはない。十割だろうと二八だろうと全く構わない。ふつうでまったく構わないし、おいしければますますいい。

 

個人的においしい蕎麦というのは後味がさっぱりしたものだ。こう…「そばですー!」という激しい自己主張ではなく、そっと噛んで確かめてみて香り立つようなものが好き。自分で確かめてみることで初めて蕎麦がそっと「そばです…」と教えてくれるくらいの味が好きである。

 

そんな蕎麦好きの自分だが、お店の雰囲気はなにより大切だ。上記のエントリで紹介している椎名誠さんの「殺したい蕎麦屋」はまさしく雰囲気の時点で落第している蕎麦屋の話だ。自分にもちょっと酷いなあという蕎麦屋にはいくつか出くわした。

 

店が多少汚くても自分にとっては構わない。お客さんがたくさん入って繁盛していて、それが逆に親しみやすさ、入りやすさにつながっているという場合もあるだろう。地域の蕎麦屋として愛されているならだ。けれど接客があまりにも雑なのは勘弁してもらいたい。注文を取る気がなく、呼んでみれば嫌々、ずっとテレビの前で甲子園なんてのは行きたくなくなる。せめて客の見えない範囲でやってもらいたい。

 

自分はどうしても客が座るスペースに店主や従業員が陣取るというのが嫌だなあと思う。たしかにお客さんに対して気配りができるとかあるのかもしれないが…。なんだかいたたまれない雰囲気になる。そういった店では早めに食べてさっさと出てしまう。

 

逆に雰囲気のいいお店というのはまず清掃が行き届いていて、提供する際のあいさつや確認が快活なのがいい。田舎だとかあまり気配りが行き届きすぎていると勝手にお水をおかわりしてくれたりするのだけれど…。

 

蕎麦屋は当たり外れが多くてわかりずらい。看板を見ていいなと思ったお店でも店員さんが頑固っぽいとそれだけで味も気難しく感じる。逆に不安になるような看板と店の面構えでも中がしっかりしていることもある。外側からじゃなかなかわからないから、結局お店に出入りする人を見極めるしかない。

 

おわりに

旅行先でそばを食べてもあまり記憶に残らない。いや、おいしかった満足ということは覚えているけれどどんな味だったかはうっすらと、いやほとんど覚えていない。けれど一番覚えているのはどこで食べたのか、どんな雰囲気だったのかである。それによってまた行きたいかどうかが決まると思う。

 

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先日旅館のこのスペースということでホットエントリに入っていたけれど、ひじょうによくわかる。旅行して泊まって、どんなことが印象に残ったか。部屋の雰囲気が良かった、どういう風に過ごした…そういった記憶が断片的に残る。その中でも旅館のあのスペースは何か特別な居心地のよさがあるのだ。

 

案外旅行で求めていたりするのは居心地の良さとか雰囲気の良さだったりするのかもしれない。最初はよい温泉だとかおいしい料理だとか…けれど最終的に思い出に残るのはもっとふんわりとしたものである。だからこそ料理や宿を提供する側はそういったあいまいでとらえどころのない”思い出”作りに手を抜かないようにするのかもしれない。

 

例え平日だろうと休日だろうと、旅行していなくてもお店に入って食事をして…。そこで求められるのは味だけではない。きっと最後に残るのは記憶なのだ。そうしたとき記憶に残ったものが心地よいことが意外と求められてるんじゃないだろうか。