2つの気持ち
今日は休みの日なのでゆっくり自分のことを振り返ってみた。紙に書き出してわかったことがある。自分の弱いところ、自信がないことは、他のことでカバーできないのだ。弱いところはずっと弱いままだ。
どういうことかと言えば、自分は寂しいと思うことは弱いことであると思っていた。それに集中力が続かなかったり、考えが浅はかだったり、計画性がなかったり…。ともかく自分の欠点と呼べるものはいくらでもある。
しかしそればかり見ていると落ち込むし、解決もしないので良い点を見つけて前向きに生きている。自分には明るく前向きに人生を楽しもうという心意気がある。それだけでも十分だと思って生きてきた。他にもちゃんと勉強したことは自分の人生で役立っているし、重要な武器になっている。
が、残念ながら他の得意なところがあったとしても自分の弱点は埋められないのだ。確かに代用が効くのかもしれない。例えば極度の人見知り+あがり症だったとしても、人に自分の気持ちをしっかり伝えたいとか、情熱的であるとか、勤勉なら何度も練習を行うことで自信を持って人前で話せるかもしれない。
けれども極度の人見知りやあがり症が治癒したわけではない。人よりずっと疲れたりするし、練習無しでやった場合は相当悲惨なことになり傷つくだろう。
同じように寂しいという気持ちを弱さとして、自分ひとりでも楽しく前向きに生きることで覆い隠そう、代用しようと無意識のうちに思っていた。でも寂しいという気持ちはずっとそのままなのだ。
それはまったく普通のことで、誰しもそうなのだと思う。恥ずかしいことでも何でもなく、ただ寂しいと感じるのは正しいことだ。他の何かがたくさんあって幸せだったとしてもそう感じるのなら、そう感じるのが正しい。ただそれだけなのだろう。
これはきっと怪我に似ているかもしれない。痛ければ痛いし、他の部分に包帯巻いたり武装しても痛みはそのままだ。やせ我慢しても結局そのまま痛みは残り続ける。でもそれは痛いから当然だし、他がリラックスしていても痛いのはしょうがないだけだ。
だから自分にとって幸せだと実感していても恐怖を感じてもいいし、寂しさを感じてもいい。同じように両立するものだと思う。自分にはそぐわない感情だなんていうことはきっとないのだろう。