かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

自分が望む感動ポルノに浸りすぎていないか

 

ビジネス書も行き過ぎると

自分は海外や日本の中で素晴らしい取り組みをしている企業の話が非常に好きだ。
例えば無駄な会議をしない、意思決定が早い、フラットな組織構造など。
こういったものは本屋でキレイな表紙と帯に飾られている。

 

こうした本はいかに日本の企業がダメか、生産性が低いかを軽快に断罪していく。
「そうそう」と自分にあてはめて読んでしまう。一種のストレス解消だ。
自分の感じる不満を誰かが言語化してくれて本当に気持ちいい。
よくある自己啓発書と同じ効果がある。

意識高いし、勉強してる気になれる。おまけに自分の不満を和らげてくれる。
これほどいい趣味はないんじゃないだろうか。

 

でもある日、本屋に立ち寄った自分はイライラしていた。
なにかいい本はないか、気持ちを代弁してくれるようなものは…。
そして気づいた。これは異常である。なにかを間違えている気がする。
本屋に来るのは幸せなはずなのに、ストレスを感じる。

 

ストレス発散はいいことだと言われるが、自分はちょっと違うなと思う。
カラオケで不満をぶちまけたりとか、もやもやを動いて解消するなど。
それでちょっとは気が紛れるが、だんだんストレス解消の耐性がついてしまう。

 

ストレス解消では本当のストレスの原因は変わらず、また新しく溜まっていく。
そしてどんどん増えていく。するとストレス解消の効き目が弱いと感じてしまう。
するともっともっと…となる。これじゃストレス解消の中毒だろう。

 

そう考えると自分もなにかの中毒反応を示していると感じた。
中毒になっているときの反応は麻薬的なものと一緒である。
依存している何かを得られないとイライラする。
そして依存にますます熱中する、しがみつく、冷静になれない。

 

よくない読書中毒

じゃあ自分はいったいなんの中毒なのか?
おそらく感動ポルノのたぐいだろう。もしくは老害みたいなやつだ。

 

日本のブラック企業あるあるや社畜といったコンテンツを切り捨てる気持ちよさ。
ある種のブラックポルノというかそんな感じのだ。
だいたい意識高い人が酔うものと一緒である。
要は合法的に叩けるものに酔いたいのだ。
それが日頃自分の近くにあって感じやすいものだとなおさらである。

 

老害とは凝り固まった考えにしがみついて自分は正しいと思い込みたいことだ。
自分が特別で、そして正しい中にいて他の人を断罪したいと思い込む気持ちである。

 

こうした気持ちがあることを自覚した。そしてすごく恥ずかしくなった。
自分は勉強している人間に見せかけてただポルノを見に来ただけである。
自分に合うポルノを浅ましく探しているだけだ。
そして自分を肯定して、敵を断罪してくれるものに甘えたいのだ。
勉強などと言っているがごまかしてるだけだ。娯楽でしかない。

 

そう思うと今まで自分がしてきたことが本当に恥ずかしくなってきた。
自分が身につけたのはポルノな知識じゃないのか。
それを書き綴って新しいポルノを作っているだけでは。
そう思うとブログを書くのがおっくうになった。

 

結局ブログはポエムみたいなものだ。それはしょうがない。
だから、自覚しつつ時々振り返らないといけない。
あれこれがよくない、不満だ、遅れている。
そういうのは簡単だし、言うのは気持ちいい。

 

でもそれでなにかタメになるのか?
本当にだれかのプラスになるのか?
自分が愚痴をいいたいだけじゃ?
老人の昔はよかったと同じくなっていないだろうか。

そんな風に最近反省した次第である。