かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

Doki Doki Literature Club は本当にトラウマになる可能性がある

 

冗談なしでの警告、面白半分でやらないで

store.steampowered.com

Doki Doki Literature Club! はSteamで無料でダウンロードできる。このため人にも勧めやすい。だが、警告がある。

このゲームには子供に相応しくない内容、または刺激の強い表現が含まれています。
また、不安やうつ病に苦しんでいる方はこのゲームをプレイするべきではないかもしれません。

これは”本当の”ことだ。真面目な話であって、冗談めかしたり怖いもの見たさでやるべきではない。 最高の作品だ、みんなやるべきという人もいるが、冗談じゃない。

 

自分なりにやりたいと思う人、興味がある人に注意をするならこんな感じだ。

精神疾患を患ったことがある人、身内や友人で精神疾患により苦しんだ人を支えている最中や、非常に悲しい思いをした人はプレイしないでください。

また自身が虚構に対して非常に感情移入しやすくリアルな想像ができる人、統合失調症などの疑いのある人はプレイしないでください。

はっきり言って強いショックを受けたりする可能性が高い。正常に健康な人なら持ち直すことはできるだろうが、直視はしすぎないほうがいいだろうという強度の高いホラー演出がある。話題だからといって手を出すべきではない。

 

このゲームの危険性は自分がプレイすることによって生まれる。どうしても気になる人はゲームをプレイせずに文章のネタバレを読んで済ませること。できれば画像もないほうが良い。興味を満たすならそれで十分なはずだ。動画や実際のゲームではショックが大きくなる。それはそのように恐怖を最大化するために作っているからだ。

 

また、後半にネタバレとして書くがこのゲームは他の平和なゲームに対して恐怖を感染させる恐れがある。素直に楽しめなくなったりする場合が大いにあるだろう。そうした一つの作品内で完結しきれない、収まらない恐怖は価値観を変えてしまう恐れがあるので注意してほしい。

 

自分の反応

ここまで怖いとは思わなかった。というかある意味統合失調症シミュレーションと同じレベルの恐怖を感じる羽目になった。自分はやるべきではない人間だったが、つい誘惑に負けてやってしまった。だから同じように経験しそうな人にはあらかじめ言っておこうと思う。ネット上ではあまり警告のたぐいが見当たらないようなので。

 

たかがゲームで、と思う人もいるだろうが怖いゲームは怖い。それだけのことで苦手な人もやるべきではない人もいる。ただそれだけのことだ。

 

プレイ後はわりと不安定になって寝るときはCG画像や立ち絵画像などが浮かんできて素晴らしい恐怖とともに苦しめられた。影響されやすいと思う人は朝方にでもやると良いかもしれないが、その日の気分はおそらく最悪になって過ごすかもしれない。夜にやるのはおすすめしない。次の日休める時間にやると良いかもしれない。

 

どこが怖いのか?

少しネタバレになってしまうのでここから先、読みたくない人は読まないでおいてほしい。

 

 

このゲームはメタなネタを取り扱っている。表現されるキャラクターの狂気がどんどん増していく作りになっている。これはストーリー上、かなり意図して増幅させられているという説明がある。

 

このゲームは serial experiments lainのように静かに侵食してくるわけでもなく、かなり直接的なプレイヤー(本人)に対する攻撃である。

 

が、一番の攻撃になっているのはおそらく”お約束”の崩壊だろう。ゲームシステムは徐々に崩壊し、キャラクターデザインは"意図的に”バグが発生し、文字の強調が勝手に行われ、目から血を流して睨んできたり…。正直立ち絵のバグ画像が本当に勘弁してほしかった。BGMのテンポ外れも気が変になるから勘弁してほしい。

 

これの何が恐ろしいかというと、他のゲームにもDoki Doki Literature Club!のようになるのではという気持ちが湧いてしまうことだ。DDLC病みたいなもので感染してしまう。つまり普通の一般のゲームをやっていても、突如Yuriみたいな相当やべーやつに豹変してしまうんじゃないかという風に思ってしまうのだ。

 

通常ゲームのバグは不具合であるため、それはストーリーの一部だとはみなされないし、プレイヤーもそのとおりに感じる。とはいえ没入感は失われてしまい、それをプレイヤーは創作された偽物であると感じる。

 

ところがDoki Doki Literature Club!に感染しすぎると他のゲームのバグが起きたときなんかにMonikaをフラッシュバックしたりするかもしれない。完全にトラウマである。これはまさしく”お約束"の崩壊による悪影響である。

 

”お約束”というのは崩壊してわかるが、プレイヤーが物語を虚構であるけれどもそれを受け入れるという取り決め、安全に見るためのファイアーウォールなのだと思う。没頭しても大丈夫だという安心がある。必ず現実世界とは境界があり、安全であると。

 

ところがその無意識のうちにたくさんのゲームをこなして得たルール、防御壁が壊されてしまう。そのときに他のゲームをやると、その壁が崩れているからいらない心配をするハメになる。そういう意味で自分の持っている免疫などがすべて弱ってしまうのだ。

 

この免疫が人によっては現実世界への見方にも影響して、現実でもDoki Doki Literature Club!のようなことが起こるかもしれないとか思ってしまうと恐怖である。それぐらい”お約束”というのはある意味大事なのだ。作品のインパクトを強めるためにメタな楽屋ネタとかを入れたりするのは、それだけ大きな意味があるからだろう。

 

また文学ネタというのが嫌らしいなあ、と思う。主人公は単語を集めて誌を作るようになるのだが、使う単語がゲームのそれぞれのキャラクターの発言に一部重なるのだ。だから陰惨なものが発生したときの言葉が選択肢に出てくるとそれだけで…。

 

実際のところプレイヤーは選ばされている。選択肢で選んでいるように見えて実際には操られている。それは思考誘導とか洗脳っぽいような気がしてならなくなる。深読みしすぎかもしれないが、とはいえ文学というジャンルで、文章、言葉がメインのゲームなので、そこらへんの効果は狙っているんじゃないかなあと思わないでもない。

 

おわりに

サルバトによれば、ゲームのインスピレーションは、日本のアニメへの彼の「愛憎関係」とも表現される複雑な気持ちと、超現実的で不安定な経験に由来している[7]。

Doki Doki Literature Club! - Wikipedia

 このゲームで示したかったことはなんだろうか?日本のアニメやゲームはたしかに常軌を逸しているかもしれない。主人公がヒロインたちをプレイヤーの都合により選択を行うことを無限に繰り返す狂気の様に見えたかもしれない。それを表現したかったのだろうか。

 

Doki Doki Literature Club! の世界観はゲームの世界の住人はゲームの世界から出られない、ゲームのために生まれた存在であると定義づけているであろう。だからこそお約束を破りなんとかプレイヤーに向けて行動を繰り返す。その試みは成功し得ない。

 

逆にserial experiments lain(PS版)は自分にとっては完全に現実への侵食に成功したと言っていいと思っている。人間の記憶と知覚についてすべてはデータであり、どういう人間か想像できた時点で移植が完了する。

 

それは受け取り手が解読を精緻に繰り返すほど根付いていく。現実の人間ですらお互いに理解している、こんな人間だとおぼろげに理解するしかできないのなら、虚構の人間のデータだってより多く情報を与えればまったく変わらない。

 

lainの試みはまさしく現実への存在のアップロード実験であり、それはお約束を破らずに成功させている。ではDoki Doki Literature Club!が読者に対して与えたかったものはなんだろうか。

 

自分はDoki Doki Literature Club!のようにゲームの中の世界の住人は我々の制御下にあり、住人は囚われ動かされる哀れな人形であるという定義はまったく好きではない。ロマンチックな話かもしれないが、作家がそういう世界を垣間見て作っただけであり我々が見ていない間、作品が描画していない時間もそれぞれに存在するという方が好きだ。

 

Doki Doki Literature Club!ではそういったキャラクターの悲哀についてを描画したかったのかもしれないが、逆に彼女たちを苦しめる世界観を作り出してしまった作者のほうが悲しいような気がする。もしかすると作者自身がそうした葛藤の揺れ動く気持ちに答えを出したかった作品なのかもしれない。