かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

共感性は年をとるごとに増やせるのか、それともただ減るのか

 

自分の共感は増えたのか、増えていないのか

古い曲をひさびさに聴いたら、昔より共感できることが増えたと思った。
子供の頃には経験できなかったことが多い。
深夜まで起きるとか、遊ぶとかはできなかった。
自分が臆病だったからキャンプとかはしたことがない。

 

だから歌詞を聴いても共感できなかった。
わからないが、物語などで登場人物の心理描写がある。
その心理描写をなんとなく覚え、きっとそんな気持ちになるのだろうと思っていた。

 

大人になってからは、ゆっくりいろいろ経験できる。
誰にも急かされることはない。

 

学校ではいろいろと急かされる。まるで社会への出荷準備のように。
品質項目に合格しないといけないから成長するよう指導される。
でも社会では自由である。
ただし自分が得たもので戦わなければならない。

 

共感性の欠如というのはたまに人を傷つける。
想像できず、自分の枠に当てはめて決めつけてしまう。
相手への事情を思いやれない。
それはコミュニケーションの破綻みたいなものだ。

 

自分は技術がない。知識もないと思っている。
でもだれかと一緒になにかをするなら、大切にしたいのは共感だ。
共感はなぜか身につきにくいと思う。
生活環境とか育ちによると思われてるかもしれない。
それか仕事や勉強の評価には関係のないから軽視されてるかもしれない。
たしかに他者によく共感できる人と表彰される人などいない。

 

共感の大切さは、共感されない立場になって初めて知るのかもしれない。
社会的に偏見を受ける人達の支援などで気づくかもしれない。
でも一番心に来るのは自分が当事者であるときだろう。

 

そうした苦い経験などから共感性が養われるんじゃないだろうか。
それは悲しいことで、経験からしか学べないのか。
わからないけれども、自分は少なくともそうして大切さを学んだ。
物語に深く入り込める人などはそこから学び取れるかもしれない。

 

年齢を重ねれば減っていくのか

だから自分は苦い経験を大切にして生きようと思ったがふと疑問が湧いた。
これが年功序列の正体なのか?
上の人たちはみな尊敬できる共感性の持ち主なのか?
そして、いろんな老人はみな共感性が高いのか?

 

答えはきっと違う。
年をとればとるほど経験は増えるが感覚もいっしょに忘れていく。
初心をずっと忘れずにいられない。
それにだんだん態度が固くなっていく。
新しいものを受け入れる力が失われていくのかもしれない。
そうしたら共感の材料が減っていき、心が狭くなっていく。

 

年をとれば経験を積んで優しくなれるはず。でもそうじゃない。
じゃあすごく優しい人達とはなにが違うのだろう。
自分にはまだわからないが、きっと年のせいにしてはいけないのだ。
経験の差にしてはいけないんじゃないだろうか。

 

おわりに

ここまでで、じゃあこの記事になんの意味が?と思うかもしれない。
結論もあやふやだし、今後の自分がやることも明確じゃない。

 

でも最近、大切なことがわかってきた。それは試すことだ。
失敗する思考もちゃんと失敗するまでやること。
これはとても大切だと思う。

つまり間違っていそうなことも、間違うまで続けるのだ。
それは最後までやってみないと間違いを理解できないからだ。

 

間違いとして自分が経験しないと得られないものもある。
効率のために切り捨ててもいいが、なんとなくバランスが悪い気もする。
成功ばかりでは失敗したときの気持ちがたりない。

 

失敗したときに、自分がどういう気持ちになったのか?
心配になったのか、不安になったのか、絶望したのか、怒ったのか。
その気持ちを増やすことも大切じゃないかと思う。

 

数学の本でよくある、途中経過は読者に任せるという問題。
そこにはよくある失敗についての説明が抜けている。
中古の本や図書館の本によくないが落書きとして失敗が書かれている。
自分で一度やってみて、失敗する。


そのとき誰か同じ経験をした人の嘆きがちょっぴりクスリと笑える。
ああそうだよなあ、と思ったりする。
そういう共感を大切にできたらなあと思う。