本屋さんで長く立ち読みをすることができない。だんだんと呼吸が苦しくなる自分がいる。対人恐怖症とか本棚に囲まれた空間が息苦しいと言うわけじゃない。まず足が疲れるし、本の内容が面白いと呼吸を忘れる。わかってくれる人はいるだろうか。
本題はフィオさんの記事。最近フィオさんのnote記事はとても深いことが書いてあって面白い。この中で出てくる特徴的なワードとして「人生脚本」と言うのがある。
誰しも自分の人生の脚本を見ながら”自分”を演じて生きているという意味の単語。
フィオさんの人生脚本という言葉は一般的には人生哲学、行動規範、プライドと変換されるだろう。変換すると元の意味を失いがちだが。
自分には脚本が、決められた筋書きがあるか。そんなことを悩んだ。自分はいろんな本を読んで、いろんな人の脚本を知りたかったのかもしれない。昔の人々の成功談、失敗談を学ぶことは一般にいいことだと言われる。勉強熱心だと評価される。
本をそれなりに読んでいて薄々気づいていることがある。
本を読んでも答えを手に入れたことにはならない。手に入れた気になるだけ。情報収集ならそれでいいけど、自分の答え探しをしてるときは駄目だ。
自分自身の答えは自分で手に入れるしかない。作ったりやってみなきゃわからない。
変な人とは特別な人、才能のある人ではない。よく勘違いされるし、自分でもたまに勘違いしたくなる。苦労している代償を自分に求めるが、そんなものはない。風邪をひいて治ったからといって別に特殊能力に目覚める人間はいない。風邪にいいも悪いもなく、運が悪かっただけだ。どんな人でもかかりうるし、治るのだって千差万別だ。
自分でやってみて、その反作用を見る。なにかアウトプットするということは、外側に作用すること。それは自分の内側にも影響する。やってみなければ、自分がどんな形をしているかわからない。自分の強さも弱さも。
自分っていったいなんなんだろう。向いてること、やりたいこと、やるべきこと。なにもわからない。脚本が欲しいけど売ってるわけない。他の人の脚本は自分の脚本になんかなるわけがない。
自分が何者なのか、手探りでやっていくしかない。何が好きで、何ができるのか。書いて、作って知ることからやっていこうと思う。挑戦にネガティブにならずに、自分を知るためにやっていこう。
そんなことを思いながら、新しい本を買おうとしたが高くて買えなかった。お金を下ろそうと思って、家に帰りそうになった。危ない危ないとコンビニに寄ってお金を下ろして飲み物を買って、また帰ろうとしてしまった。
全くダメ人間である。この文章を書くのもメモもしてなかったから思い出すのが大変だった。買った本は結局建築の本だった。役に立つかどうかわからない高い買い物をしてようやく帰った。
続けたいと思って続けることもいいけれど、気がついたら続いてる、やってしまっていることを見つけたい。人に言われてとか、他人から影響された理想とかよりも、気づいたらやっていることの方が自分らしいはずと思っている。