かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

隣の芝は256色

 

小さな話の寄せ集め 

ブログネタが溜まっているので、小さなテーマをたくさん重ねて書こうと思う。結構エッセイ集は好きなので、そんな感じにかけるといいな。

 

タイトルの話

タイトルは今日、ふと口からこぼして面白かったもの。別に隣の芝が何色だろうと、色とりどりだろうと気にしなくていい。隣の隣の芝もまた違う色ならば、無限大になるか、いやならないか。

隣の芝は一色でできているわけではきっとない。尊敬できるところ、すごいところはたくさんある。同じように自分の芝にだって、多くの色はある。一色で比較するのは面白くない。雑草などという草はない、っていうのと同じだ。自分の芝をよくみて、たくさん色を見つけた方がいい。

 

色についての話

最近とうとう一周巡って色の勉強を始めた。何が起きたのか。まずVRChatでワールドを作り始めて、構造ばっかりじゃなくてテクスチャもきちんとしなきゃダメだと理解した。鉄とか木造とか、雰囲気の違いを楽しんだ。

その後、照明に目覚め、いい照明とは何か、なぜ照らすのかに悩んだ。結果として照明に意味を持たせねばならぬと理解した。適当に照らしても明るいだけだが、的確にデザインすること=照明計画=ライティングとわかった。光を設計する、デザインする=意図を反映させることであると。

で、次は色だ。なぜ色なのか?それは壁を光で照らした時、暗い壁だと光の効果が薄くなる。明るい壁だと光をいっぱい反射するので明るくなる。じゃあ色はどうやって決めればいいのかと悩んだ。

これは結構面白くて、基本的に普通の建物は床が暗いことが多いと知った。暗い色は重みがあると錯覚され、落ち着くから。壁は白いことが多い。なぜなら白い色は膨張色と言われ、空間が広く見える効果があるから。そこに光を加えればさらに広く感じられる。白い天井に光を当てればさらに錯覚するわけだ。

これもまた建物に対する設計、デザインであり、意図を反映させるってことなのだろう。つまり建築には意図したものがたくさんある。想いがいっぱいあり、それを表現する手法が必要だ。というわけで勉強中である。

 

神社に行った話

そろそろ2019年も終わりなのでお参りに行ってきた。以前にこのブログでも書いたが、新年明けてからじゃなくてもお守りは買ってもいいし、納めていい。神様も新年でラッシュで願掛けされるよりは、ちらほらと年末に行った方が分散できて良いだろう。神社で働く方々も嬉しいに違いない。

祈った内容については人に言ったり書いたりしない方が良いだろう。祈る内容については自分ではどうしようもない、本当に天運に任せるしかないものにしている。例えば無病息災とか。健康に気遣うのも大事だが、最後の最後はどうにもならない。

それ以外は決意、所信表明としている。神様の前で今年はどうだったか、反省していることは何か、来年はどういう年にしたいか報告する。

 

神聖な場所での自分の振る舞いを確認して、自分で反省する。例えば行列ができていたとして、落ち着いて待っていられたか。割り込まなかったか。割り込まれても腹をたてなかったか。早く来ないかと後ろからプレッシャーをかけなかったか。

祈る時も姿勢を正しくできたか、手順を間違えなかったか。ちゃんと帰るまできちんとした態度でいられたか。そういうところを反省する。

 

今回はちょっとダメだった。帰る間際、石を一つ蹴ってしまった。しっかりと所信表明して満足して振り向き、あとは帰るだけと油断したのが仇となった。一息ついたところで足元を掬われるような振る舞いをしてしまった。これではいけない。

神様が教えてくれたと考えるんじゃなくて、神聖な場所できちんとした態度で過ごそうとしたのにもかかわらず、気の緩みが出てしまったのだ。それは日頃の行いとか自分の限界とか。そういうものの反映である。神聖な場所をお借りして、自分の振る舞いを正す。そういう機会としている。

今年も来年も、何か区切りがつきそうな時こそ油断せず、最後までちゃんとした態度で過ごしたい。

 

オレンジジューステストの話

仕事を請け負う時、誰かから相談された時に「できません」というのは普通すぎる。できると根拠なく言ってもダメで、「できますよ」と返事して「これくらいかかる」と言った方がいい、そう本に書いてあった。その本が好きだから、今でもちゃんと守ろうとして生活している。

その本はコンサルタントの秘密という。コンサルタント?あの外部で高くて胡散臭い、役に立たないアドバイスしかしない連中か…。なんていう評判はつきものだけれど、この本を読むと全く違うとすぐわかる。世の中の人は大体ミニ・コンサルタントなのだ。

 

要はコンサルタントというのは問題解決を手伝う人、と定義される。例えば今から北海道のストリートビューを全部撮ってこいと言われたとする。期限は三日。当然無理だとはわかるわけだが、まずは話を聞くこと。問題解決を手伝うのなら、相談をまず聞く。コンサルなわけだ。

本当に解決したい問題は何か?例えばそれが実は旅行アプリを作りたいのだとわかる。Googleじゃダメなのか。何か利害関係でダメらしい。じゃあ自作をという前に、他のデータとかアニメ、もしくはゲーム画面じゃダメなのか聞いてみたりする。

大事なのは問題を解決することであって、言われたことを忠実にこなすだけではダメだ。これは最初に書いたことと矛盾しない。できるけれど、このくらいかかると思います。さて、もっといい方法もあるかもしれませんから、よければお手伝いしますよ?と。

問題解決には信頼とか実績がいることも多い。まず信用されることも大事だ。だから返事は明るめに、相手の知りたいことに寄り添い、相手のことをよく理解しようとつとめ、同じ目線で同じ問題を解く仲間だと主張し、実際に一緒に考える。

 

とまあ、そんな本があるのだけれど世の中にはあまり知られていないらしい。この本に書いてあることを完全にできていないし、覚えられていないので自分は中途半端である。でも全部やったらかなりの武器になる。本に書かれていることを覚えて、使うだけで自分レベルには誰でもなれるので、自分は大したことはない。

 

何もしてない方が相対評価が高くなる話

仕事で何もしてない人はなぜ首にならないか疑問に思う人がいるかもしれない。自分はそんなポジションだと思っているのだが、思ったことを書く。

周りでバタバタと炎上していて、みな多かれ少なかれ不機嫌だったり荒い振る舞いでミスをしたりする。安全にできた時はできて当然と+5点くらいで、ミスしたときは−10点。でもミスを挽回して火消しできたら+30点みたいな。

多くの人間がいてそれなりにバタバタしていると評価はぼんやりとする。あんまり人を見切れておらず、評価者が少なく、それぞれ互いにクロスチェックもない評価だと仕事をしていない人の方が有利なのである。目立ったミスがないから、バイアスがかからない。

人間はミスに目敏く、なぜか恨みとかそういうのにくっつきやすい。なのでミスをしない方がいい=仕事をしない方がいいのである…。まあ非常によろしくないライフハックなことで、きちんとした評価制度、評価者や同僚同士で互いにクロス評価をする場合で防げる。

日本的に上司が”自身の目でちゃんと見た”評価軸で判断するのが正しいと信じていると、自身の盲目さにより仕事をしていない無難な人が首にならず、なんとなく居座り続けるということが起こるのである。

 

 長い文章は嫌われる話

最近仕事をしていて気づいたこと。どうやら長い文章は嫌われるようだ。一文が長いとダメ。しかもざっくりポイントだけでよく、曖昧でも具体的でなくても短い方がいいらしい。これは自分の感性とは真逆なことで、むしろ今まで気づかなくて申し訳なかった。

自分は読むのも書くのも大好きな人間だ。長く書くのが好きで、説明大好き人間である。表現すること、理解することが好きで、それにはきちんとした文章で根拠とかポイントをたくさん書く必要があると思っている。

理系という分け方は微妙だが、説明はたくさんあった方がいいと思っている。ちょっと違う表現でたくさんかき、多角的にみることでより正確性を増すことができる。なので文章は多いほど、理解度が深まり、読む人の手助けになると信じてきた。

これは探偵みたいなものだと思った。現場にある手がかりは多ければ多いほどいいと。例え意味のないものが大量だったとしても、それは受けとり手が判断すればよく、いるいらないの判断は高速でできるし、処理できるはずだと。

 

ところが一般的にはそうじゃなく、予めポイントを絞ってもらわないと混乱するようだ。長いと読む気もしないし、読めない。読まないじゃなく、疲れて読めないのだ。

多少の正確性は犠牲にして全然よく、推理分析なんて不要なのだ。わかればいいと。これは自分にとってちょっと辛い。正確性を上げるためいろんなものを積み重ねるのが科学的だと思うのだけれど、まあたくさん書いて判断して!というのも乱暴であると思った。

ブログを書いていて文章をたくさん書くのが好きだからと言って、ついつい書きすぎてはだめ。そして、正確性を犠牲にする必要がたまにはある。読まれない文章に価値はない。悲しいことだが。