かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

デスストランディングをクリアしたので感想

めっちゃ面白かった。なので思い切りネタバレを含んで感想を書く。

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がんばりました

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5日くらい没頭しすぎた

 

配達で人と人とを繋ぐこと

デスストランディングはお使いゲーに真っ向から挑んだ作品と言われている。
オープンワールド系で嫌われがちな”お使い”ミッションがそのままゲームになった作品だからだ。
究極的に言えば荷物を運ぶだけである。

 

じゃあユーロトラックシミュレーターのようなゲームと何が違うだろうか?
それは圧倒的なストーリーと人の豊かさである。ただ荷物を運ぶだけじゃない。
運んだことによって世界が変わってゆく、人が変わってゆく物語である。

いや大げさな、そんな馬鹿な。ゲームだからでしょう、ご都合主義だろうと。
んなことはないのである。ちゃんと舞台設定、人の背景が描かれているから納得できる物語になっている。

 

ストーリー中では主人公サムが喋る言葉はひっじょーに少ない。ものすごく少ない。
口数が少ない寡黙な男として描かれているからだろう。本心は最後のほうに語られる。
サムは荒廃した世界で荷物を運ぶ意義について語る。それが本当によかった。

 

小島監督が導き出した配達、物を届ける意義とはなんなのか。
普段私達は気軽に物を頼む。Amazonで注文したりする。それをどう感じるだろうか?

 

サムの言葉を借りると人は配達を頼むことで「届く未来を楽しみにする」とのことだ。
荒廃した世界で人々は希望をなくし、屋内で人と関わらずにこもりきっている。
そんな中で他の場所から荷物が届くかもしれない。届かないかなと待ちわびる。

人とのつながりが得られる。届くことを想像して、未来にわくわくできる。
荷物を届けることで喜んでもらえる。人と人とをつなぐことができる。未来に希望をもってもらえる。それこそが配達人の原動力なのだと言う。

 

この言葉が語られるのは本当に最後の最後。
プレイヤーが頑張ってアメリカ全土をつないで、荷物を大量に寡黙ながら運んだあと。
主人公から「配達とはなにか」「主人公の喜びとはなんだったのか」を語られるのだ。
もう…運んでよかった。配達頑張ってよかった…と心から思える瞬間だった。

 

サムは家族をなくし、自分の生きる意味も見失いながらただただ配達をしていた。
けど意味はあったのだ。サム自身の救いにもなっていた。世界を救うなんてことは大きな問題ではなかった。人々のため、人がわくわくして待っている、期待に応えるため頑張って運ぶ。喜んでもらう。

 

それは幸せだったのだろう。だからデスストランディングはただの配達ゲーではない。
荒廃した世界で、人々をつないで、明日への希望を持ってもらうため、人が運びつないでいく物語だった。

 

 

おわりに

まあいろいろ他にも語れることはいっぱいあるんだけれども。

 

例えばマッツ・ミケルセンが最後を完璧にさらっていって神すぎたこと。監督がマッツ・ミケルセンのファンめっちゃ増やします!とか言ってて。
やってて「こいつはやばい謎の敵だが、マッツ・ミケルセンである必要あるの?」とか思ってたけど、最後がもう…マッツ・ミケルセン以外なかったわと思う。最高でした。

 

で、アメリ…。うん。なにがしたかったの…。パニックになっていたというのが真相だろう。男共連中が濃ゆくていいキャラすぎるので対比するとおおぅ…という感じ。しょうがないっすねと思うけど、この人が一番つながってなかった人ってことなんじゃないかな。

実はボッチで抱え込んじゃった結果という気がする。あるよね、リーダークラスの人が突如失踪する感じ。この物語じゃ大統領なわけだけど。やばい。アメリカ流リーダーシップの悪いところという点でドナルド・トランプと重なって見えるかもしれない。そこまでひどくないか。なのでラストシーンの人たちとやっぱり対比される可愛そうな人ということで…。

 

デス・ストランディング、漢どもが漢していてよかったです。ヒッグスは噛ませ犬でした。サアアアアム!殴り合いはよかった。なんだかんだ監督、MGSとかゲームネタ入れていかないと気がすまないのね。

 

正直なところゲームを作っている人たち、”ゲーム”ということに劣等感みたいなのを持っているらしい。せっかくいい物語とか人を掘り下げて作っているのに”遊び”としか見られないみたいな。コンテニューもセーブも周回も気軽にできるから緊張感がないとか。

んなこと気にしなくていいのになーと思う。異世界転生モノとかで日本語しゃべれるのおかしいとかファンタジーとかSFで外国人キャラが日本語しゃべってる!とかね。物語を物語として解決できない人の世話をしなくていいのになと思う。

一方でプライドとか違和感を少なくする努力をしたいのなら止めないが。個人的にはそれで苦しんだり、なにか新しい制約や歪みを生むくらいならやらなくていいと思う。

 

人は物語をそのまま読むんじゃなくて、自分の中に映して、再構築するのだ。それは国語力的な問題でもある。よく小学校で朗読をさせるってのがあると思うが、意外と朗読してみると自分の脳内で読んだ内容と違うということがわかるという。中にはまったく違うことを堂々と読み上げる人もいるらしい。

だから物語を書く人たちはあまり正しく読まれる努力はしなくてもいいと思う。必要以上にという意味で。作品はあくまで写像的なものだ。もしくは穴というべきか。作品を通して伝えたかったことを私達は受け取るのである。

 

なので些細なゲームのコンテニューだとか周回とかあんまり気にしないでほしいなあと思うけど、監督的にはまだまだ深堀りや違う表現探しを続けていくつもりなのかなと思った。