かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

結末は変わらないけど、過程を変えて幸せになるやつ

 

最初はメタ的な幸せにしようかと思ったけど、メタの意味が違った。

要は結末は変わらないけど、その過程において幸せになっても特に世界に影響を与えず、当人たちだけしか影響がないから問題なく成立するということが語りたい。

 

いわゆるAngelBeats的幸せである。キャラクターはすでに死んでいる。
過去は変えられない。生き返ることはできない。死因は決定している。

けれども、本人が不幸だと思って死んでしまったとしても。
それでもその死を見つめ直したとき、少しでも幸福だと思えたら良いじゃないかと。


過去は変えられないけれども、本人の気持ちの中で整理がついて前を向けること。
それはタイムリープや世界の改変だとか、そういうのなしで成立するよねということ。
超常現象がなくても、一般人でもできる解決方法でいいよねと。

 

この手の美学は、三日間の幸福の作者・三秋 縋がいいなと思う。
気に入っているのは以下だ。

悪党であることは変わらない。罪も消えない。世間からの評価も変わらない。
けど最後の最後で童心に戻って、たぶん自らの罪を悔いたとき、終わりを迎える。 

それはなんていうか、遊園地に逃げ込まず、静かに終わりを迎えたときと世間的にはなにも変わらない。見える結果は同じである。過程についても、結局逃げて捕まって終わり。

けど、本人にとっては違う。救いがあるように思える。

 

どこかで見たけど、罪人に対しカウンセラーが果たすべき使命は罪を自認させることだと言う。罪を認めなければ、正しく裁けない。被害者が報われない。そして、きっと本人も救われない。自分がやってきたことを自分で認められなければ、結局自分自身を受け入れられなくなる。

 

だからこそ、先のツイートの物語は美しい。結末はきっと変わらないのに、けれども罪人が自分の中で罪の意識、後悔を強く感じ、終わる。

誰かに説教されたり、正面から教えられるよりも、ただ一緒に過ごした楽しい時間にそっと気付かされる。自分が間違っていたと。

たぶん、なんで自分が!とかうらめしい気持ちよりも、ずっといい。
参ったな、死にたくないぞ。…けど、裁かれる運命にある。受け入れなきゃな、悔しいけど。そうして終わるのは、ずっとすっきりする。

 

それは、被害者だとか世間がどーたらというのは関係ない。結末は変わらないのだから。だからその過程で救われるのは問題ないよな、と思う。

 

…ところで先のツイートを発掘しようとしたところ、本人がまとめていたものがあった。

twitter.com

ひとつひとつ、小説の短編のように濃厚なネタが広がっているので、時間をあっという間に溶かしたい人にはおすすめ。なお、全部ぐぅ…という切ない物語ばかり。

なにか、美学を追い求めてるんだなあと感じる。こういう話は好きである。