かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

serial experiments lain の実況を見て今思うこと

 

 

周防パトラさんが実況をやっていたので、そこそこ見た。

www.youtube.com

コメントがリアルタイムで、視聴者数も多く反応が新鮮で面白かった。
実況を見ていて思ったことは「機械なのか、AIなのか、人間なのか」をみんなが重視していることだ。

 

それに対してlainのゲーム中では「意味がない」としているのに、
みな誰が本物のlainなのか、lainが誰でなんなのかを理解しようと頑張っていた。

 

自分が思う解釈は以前とさほど変わらない。このserial experiments lainというゲームであり記録自体が信用ならない。(これは信頼できない語り手の問題だ)

なにが正しいか、だれが本当のことを言ってるかを考えることは難しい。
だが、これはある意味で禅問答のように捉えられるのではないかと思う。

xn--xxtz11d.com

江戸時代の禅僧、白隠和尚の公案で「両手を打つと音がするが、では片手だとどんな音がするのか」という問い掛けが問答の内容です。

でも両手で打つからこそ音が出るのであって、片手ではせいぜい風を切るくらい、とても音など打ち鳴らすことはできませんね。

だから「音は出ない」と答えたいところですが、それは聞える音だけにこだわる思い込みだと、この公案は教えています。

音は耳で聞くものという分別にとらわれている限り、音を感じることはできません。全身全霊で気配を感じようとすれば、必ず真実に触れるものがある、そこに向かって励めと戒めているのですね。

一見して答えがないような「ありえない」「意味がない」と感じられるものに対して、既成概念を外して答えを模索することに意味がある、という形だと思う。

lain自体はただ記録が転がっているだけ。しかも順序も明確ではない。
また信頼できない語り手が作成したものである以上、そこにあるものも事実であるとは言い難い。(創作物でもあるし、当時のゲームとしての性能・容量限界だってある)

 

真実と嘘が入り混じり、なにも信頼できない状態のときに「じゃあlainが伝えたかった本質はなんだったのか」と考えて、自分の中で「lainはこういうことを考えていたのでは」と考えるのは禅問答みたいじゃないか?

 

なにが本当か、人間とはなんなのか、Vtuberとはなんなのかを考える上でも面白くて、肉体の有無や他人に記憶や記録があるかが存在しているというわけでもないのか。

そもそもlainという創作上のキャラクターが創作上で生存しているかは重要なことなのか?

 

そういったことを配信を見てて、いろいろ考えさせられた。

 

あとは時代が進みすぎて、AIとかChatGPTが現実になってしまったせいで引きづられちゃってること。アニメなどの作品も増えて、AIへの解像度や類似作品が増えすぎたせいで「〇〇っぽい」という人が増えてしまった。今ならlainが作れるとか、Vtuberがどうとか。

それは人間がある物事を理解する上で類似するものを基準にして学ぼうとする性質がたぶんあるから仕方ない。けどそういうのを抜きにするためにこそ、禅問答のように、真実や嘘を曖昧にして「lainはなんなのか」をこのゲームは問いただしているように思える。

試されているのは我々の方だ。

NovelAI

lain はAIの生成結果に反映されやすい。キャラが一人だけでファンアートも長くからあるし。さすがlainというべきか。