仮想は現実より劣るのか
実際多くの人はそう考えるだろう。だからゲームには価値がない。
が、これは違うと自分は思う。タイトルにもつけたが、禅がそれを示すはずだ。
例えば枯山水がある。枯山水の説明にはこんな言葉が書かれている。
枡野俊明は、禅の庭とは目に見える庭を通して、そこに繋がる延々と続く宇宙を表現したものであり、それを掘り下げて仏法の道理と絶対の真理を見抜く「現成公案」であるとする
つまり、目で見えるものが全部本物じゃないと言っているわけだ。目で見たものから心で理解する必要がある。自分の中で再構成する必要がある。目の前にあるものの、本質を自分で見抜かなければならない。
現実世界において表現されているもの以上を自分で感じ取る必要があるのだ。枯山水は言ってしまえば岩と石と砂。木とか空とか含まれるだろうが、それだけだ。だが、本質的には、最小の構成でより多くの世界を表現できている。
同じようにファンタジー小説なんかも似ている。映画も同じだ。ある人物の旅路、心の変化、試練と挑む姿を描いている。それらに人々は共感し、感動し、時には勇気づけられる。本当に現実で起きたことのように感じられ、満足する。
それらは仮想であるから、リアルじゃないから価値がないわけじゃない。むしろリアルじゃないからこそ、本質が濃縮されている。エッセンスが詰まっているのだ。
無私と作為と
「なんでもないっていうことがすばらしい。盛りだくさんではいけない。なぜか知らないけども、振り返ってみたいと思わす。感じてるようだけど感じていない。感じていないようなんだけれど感じているっていう。それをいかにして実践するか」
枯山水に何十年と向き合った人が作る極意として述べているのは自分を出さないこと。我欲を捨て去り、自分が作ったという意識を消す。だが、それでも作った人の個性はにじみ出てしまうものらしい。わざとらしさはなく、されど作った人の心が残るもの。
ここまでくると本物の達人としか言いようがない。が、これを冷めた目で見れば単に石を置いたもの、それだけである。現代アートを見てつまらないと言う人と変わらない。
作った人の心を見れるようになると面白いなと思う。たとえそれがどこにでもある、だれでも使える素材で組まれていたとしても。
構図、光、視線誘導。ありふれたものでも組み方によって魅力は大きく変わる。なぜそういう配置になったのか、どこを魅力的に描いたのか。それぞれ作者ごとに回答は違う。
ただただ目で見るだけではつまらない。なぜそうなのか、見えないところを見るのが楽しいと思う。
おわりに
自分はよくSteamで安いゲームを買ってプレイする。世間一般にはクソゲーと呼ばれるものが多いが、いったいなぜ買ってそこそこ長い時間プレイするのか。
たぶんだが、意外とどんなゲームにおいても「このゲームはなんなのか」を理解するのが難しいからだ。ゲームによっては序盤・中盤・終盤で全然見せる顔が違う。
この間7days to dieをプレイしてみたが、最初の印象と後半に受けた印象は全然異なる。最初はとことんサバイバルで、資源不足にあえぐゲームだった。後半ではタワーディフェンスするために資材を集め、打ち勝つゲームという印象だ。
コインプッシャーフレンズ、マーブルボールフレンズというゲームもプレイして一応コンプリートしたが、これらは見ず知らずのフレンドと気にせず協力できる楽しさ、コインがそもそも落ちる原始的な楽しさ、意外とインフレしやすい面白さなどが際立っていたと思う。ゲームのデザイン・設計的にかなり優秀なのだ。
よくよく考えるとゲームセンターにあるメダルゲームも、フィールドにあるのは赤の他人が投入したコインなのである。それを自分のコインを入れて取得する。ギャンブルのシンプルなルールが可視化されていると考えると、なかなかおもしろい。
自分は出会った作品やゲームに対して自分なりに「それはいったいなんなのか」をちゃんと理解したいタイプだ。納得したいと言ってもいい。どういう意図があるのか、どうしてほしいのか知りたい。そのうえで楽しみたい。それがわかるには、実は結構時間がかかる。
いろんなゲームをプレイしたいのはそういう理由でいっぱい理解したいからだ。いろんな人の様々な思索を理解したい。そこに値段やクオリティはあまり関係ない。