かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

守りに入りすぎていて、自覚もできなかった自分に反省

 

守りに入っていませんか

この間ブログとはまったく関係ないが、守りに入ってるんじゃないですか?という指摘を受けてグサリときた。たしかに自分の生活のあらゆる部分で守りに入っていたかもしれない。守りばかりでもダメなのだ。

 

守りに入るのは簡単だ。「忙しいから」「安定してるから」と言い訳によって消極的になる。落ち着いているように感じてしまう。ある意味でモチベーションを腐らせてしまっているのかもしれない。まだまだやれるかもしれないのに、守っていては可能性は生まれない。

 

自分はもともと攻めすぎるのを嫌うタイプだ。人に対してガツガツ行くタイプでもなく、生活でも攻めはあまりしない。奇をてらった選択も大きくはしない。毎日同じ定食でも気に入っていればいいかもしれない。

 

ただ、今回グサリときたのはわかっていたからだ。消極的に逃げている自分を自覚させられたからだ。本当は言い訳をしたかった、楽になりたかった自分がいる。何も変わらないならそのままでいい…。そういう言い訳をしていた。

 

大人になってからは成長を感じるのが鈍くなってくると思う。それに従って時間の流れにも鈍くなり、一年、また一年と過ぎていってしまう。成長はしてないかもしれないが、それでも自分は守っているという感覚でごまかしてしまっていた。

 

成長するとは自分が変化することだと思う。今までの自分ではいられなくなることだ。守りとはそうした変化を嫌うようなものだ。いつの間にか変化することが嫌になっている自分に気付けなかった。守ることはいいことだと自分で信じてしまっていた。

 

成長が嫌いな理由はいくつもあると思う。一つは終りが見えないランニングをしている気分になるからだ。それに勉強しろと怒られている気分にもなる。子供の頃、何度となく勉強しろと怒られたのはきっと成長しろと言いたかったのだろう。

 

生きていく中では成長を続けなければならないと、攻めていかねばならないと諦めるしかないのだろうか。それにいつか成長が止まらないだろうか。どこを目指して走り続けなければならないのか。競争ばかりじゃないかとつらい気持ちになる。

 

ただそれはきっと勘違いと言うか、思い込みで本当は誰とも競ったり戦う必要もないはずだ。成長とは言っているものの、要は新しいことにチャレンジしているか、自分のことをきちんと見直せているか?ということだと思う。自分を顧みなければまず守りも攻めも成り立たないのだろう。

 

守りすぎず、攻めすぎず、今の自分をきちんと見直したときに新しいことにチャレンジしてみるとか少し攻めてみる、守りに入ってみるなど自分が何をしていたのか、これから何をするか計画を立てようということなんだと思う。その見直しを定期的に忘れずに、厳しくやる必要があるのだろう。

 

おわりに

自分の感想というか気持ちを書くのが嫌になっていた。文章を書くのが嫌だと感じてしまっていた。自分が最近読書をせずに、ただ疲れて寝てを繰り返し、体がだるいまま改善しない毎日を送っていた。そんな日々ばかりだから活力もなく、以前より自分が生き生きとしていないことに苛立っていた。

 

その苛立ちは本当は成長していない自分に対する怒りだったのだろうと思う。そして守りばかりしている自分の言い訳が情けなかった。本当はわかっているはずなのに全然できない自分が悲しいという気持ちもあった。

 

こうしたイライラとか微妙に落ち込んだ鬱っぽい気持ちの打開策を知っている。とにかくやることだ。なにも言わずにやることだ。馬鹿みたいに簡単にやることだ。

 

実はこの文章を書く前にひさびさに読書をした。といっても5分くらいざっと読んで見ただけだ。それでも…楽しかったなあと感じられた。ちょっと心もドキドキするし、やる気や元気も湧いてきた。本当はやりたかったのに、やってない期間が長くなると後ろめたさとかそういうので重たくなっちゃうのだ。

 

自分の人生やっぱり上がったり下がったりだと笑ってしまう。いいことや調子がいいときもあれば、こんな感じで初心を忘れるべからずなことがあったりする。そうした揺れ動きの数や大きさが収まればいいのだが、そうしたリズムが人生には必要なのかもしれない。

 

ともかく反省したので今後は読書を楽しみたいと思う。随分と長い期間が空いてしまって自分にも申し訳なかったし本にも申し訳なかったのだが、そうした申し訳ない気持ちはポイッと捨てて楽しく読書するのがきっと一番なのだろう。大事なのは1秒でもいいから読み始めることだと知っている。